ある日、好きなワインは人それぞれ
ボジョレ・ヌーヴォーが解禁された。私の赤ワインの好みは、まろやかに口腔内に広がり、少しざらっと感じる程度に渋みがあり、ややゆっくりと喉を通るくらいの重さのもの。果実のような香りがじんわりと余韻を残してくれたらなおいい。今まで飲んだことのあるヌーヴォーワインは、口に含むと味も香りもさっと弾けるように広がり、それがすぐに消えた。ぽつぽつとした渋みが舌を覆ったかと思えば、すっとした喉越し。ちょっと自分の好みとは違うかな、とかれこれ十数年、ヌーヴォーワインを口にしていない。近年では数年寝かせたような口当たりのものも出てくるようになったと聞いているが、さほど購買意欲は起こらずにいる。
2000年と2004年にフランスで解禁日を迎えたときも、私は試そうともせずスルーしていた。2004年には、解禁に沸く日本の様子をフランスのニュース番組で見たが、他人事のように眺めていた。たまたまかも知れないが、私の周囲のフランス人にもこの日を待ち望んでいるといった人たちがいなかったので、
「どうして日本ではあんなに盛り上がっているの?」
と聞かれたときなどは返答に困った。
新ワインの味を試してみたいから?
ワイン全般が好きだから?
世界で最初にその年のヌーヴォーワインを飲めるから?
「わざわざ夜中に買い求めたり集まったりして飲むくらいだから、よっぽど好きなのよね?」
はぁ、そうなんだと思いますが……。
私のはっきりしない返答に、肩をすくめられたりしたものだ。
フランス人の中にも、当日を待ち望み、すぐに試す人は大勢いるだろう。ワイン全般をたしなむ人、例えばアンヌ・マリーのご主人や息子たち(『ある日、お城へのご招待』で紹介しているご家族)も、いち早く試しているのかも知れない。そもそも、アンヌ・マリーのいとこさんはワイナリーを経営しているくらいだから、自社だけでなく他社のヌーヴォーの出来も気になるところだろう。いとこさんは関係者だけれど、日本では関係者以外も夜中に集まってワイワイとやっているから、ヌーヴォーワインに拘らなかったり特に興味のないフランス人からすると、不思議な光景なのかも知れない。
日本での盛り上がりについての質問も返答に困ってしまうけれど、自分の嗜好を聞かれたときも、多少困惑するかも知れない。赤か白か、重いか軽いかなど簡易的には答えられても、詳しく説明するのは難しい(冒頭で私が自分の好みについて話しているのは、このあとお話するテイスティングでの出来事があったからです)。最近アルコールを扱うお店では、AIが好みを判定してお勧めを選んでくれたりするようなので、そういうところで自分の好みを把握するのもいいかも知れない。
かつて私は、語学学校の友人と一緒に白ワインのテイスティングを行ったことがある。パリのヴォージュ広場近くにテイスティングができるお店があり、私の友人ベット(ギリシャ系アメリカ人)、ベットの友人ご夫妻(スペイン人)、私の4人で参加した。
少し話が逸れるが、ベットとは南仏の語学学校で知り合った。彼女は旦那様の仕事の関係でフランス暮らしが決まったため、生活に必要となる会話力を身に着けようとその学校へ来ていた。私とベットは早いうちから意気投合し、お互いのことをよく話していた。その中で、二人ともこののちパリで過ごすことが分かったので、事前に連絡先を交換しておいた。卒業後、ベットは旦那様とパリ16区に暮らし、私も彼女から遅れて1か月後にパリへ居を移した。彼女は私をご自宅に招いてくれたり、街中の散策に誘い出したりしてくれた。このテイスティングも、ベットから声を掛けられて参加することにしたのだ。
店内はとてもこじんまりとしていて、灰色をした6人掛けの木テーブルが狭苦しそうに置かれていた。テーブルの上にはグラスのほか、つまむ程度のパンやナッツ、何やら細かく書かれたA4サイズの紙が用意されていた。ざっと目を通したところ、その紙にはテイスティングの方法や、味やら香りやらを表現する単語が記載されていた。驚いたのは、動物の名前なども挙がっていたことだ。香水ではジャコウとかあるけれど、ワインにもあるの?口にするものについて、ケモノで表現してOKなの??嫌がられたりしないだろうか???
最初から面食らってしまったが、そうこうしているうちに店主の男性がテーブルに着き、テイスティング開始。100mlくらいの量で4種類のワインが提供されることになっており、軽いものから次第に重くなっていくとのことだった。アンヌ・マリー宅でのテイスティング方式(吐き出すやつ)ではなく、パンやナッツと一緒にどうぞ!と振舞われたので、慣れない私でも気軽に試せる。
「それぞれどんな感じだったか、表現を探してみてください。紙に書かれていない言葉を考えてみるのもいいですね」
店主が指揮者のように手を振りながら説明する。
「あなたはどこの国の人ですか?」
「日本人です」
「そうですか。もしフランス語でピンとこないようでしたら、日本語でいいのでしっくりくる表現を探ってみてください。国が違えば、感じ方も変わってきますから」
なるほど。テイスティングとは美味しいとか好みじゃないと判断するだけではなく、自分の感性を表現することでもあるのね。
というわけで、私は頂いたリストには極力目を通さず、自分なりの言葉を探ることにした。
1種類目は、春風を思わせるように軽やかで口当たりが柔らかく、甘味や酸味が程よくすっきりとした喉越し。草のような香り(イグサではなかった)があったように思う。私はこれが一番好きだった。2種類目と3種類目のことは残念ながら覚えていない。4種類目は……。
「私、これが一番好きだわ!あなたはどう?」
ベットの友人のスペイン人マダムが私に話し掛けてきた。彼女は4種類目が良かったようで、私に感想を求めてきたが、私はどう答えるべきか迷っていた。
「私は、ですね」
「ええ」
「“胃酸”って感じました」
「?それはどういう意味?フランス語だと何て言葉?」
「辞書がないので、ちょっと……」
このテイスティングが週末で本当に良かった。学校帰りで辞書とか持っていたら、調べてみてって言われそうだし。
そう、私は4種類目にリバース的なものを感じ、気持ち悪いと思ってしまったのだ。食事を摂らずにテイスティングに出向いたので酔ってしまったのかとも思ったが、どうもそうではなさそうだ。頭ははっきりしているし、アルコールが回っているときのような不快さもない。単に、この白ワインの味が嗜好に合わず、これ以上試したいと思えなくなっているのだ。これをオブラートに包んで表現するとしたら、“こみあげてくるもの”ってところ?
店主の方は「しっくりする表現を」とおっしゃっていたが、感じたままを伝えてしまったら、動物の表現よりも引かれそうだ。仮にフランス語で“胃酸を感じた”と言って許容されたとしても、スペイン人マダムが
「一番好き!」
って言っているものを、私が気持ち悪いものと表現してしまうのは、いかがなものか。
言葉の壁があって良かった、と思うのは、こんな風に都合が悪いことを言わなくて済むときくらいだ。
テイスティング後、気に入ったワインがあれば買えるとあって、マダムは4種類目のワインを購入したようだった。私は口の中を水でさっぱりさせた後も、胃酸の感覚から抜け出せず、1種類目のワインすら買うのをやめて帰路についた。
自分好みのワインがテイスティングによって見つかるかも知れないし、私のように気分が悪くなることもあるかも知れない。好みを聞かれたとして、
「胃酸を感じないものがいいです!」
と言ってしまっていいものかは分からないし、伝わらないかも知れない。けれど、フランスでもらったリストの言葉は結構幅広く大らかなものだったから、お店で選ぶときなど、店員さんにはこっそり伝えてもいいのかも知れない。
日本ではそのキャッチコピーでも話題になるヌーヴォーワイン。毎年出来がいいんじゃないか、と思ってしまうようなコピーではあるものの、そんな中でも今年は良い出来栄えのようだ。誰かにとって
「私、これ、好き!」
となるようなものが見つかるかも知れない。
私は……。今年もスルーすることになりそうだ。
※「Beaujolais Nouveau」は「ボージョレ・ヌーヴォー」「ボジョレー・ヌーヴォー」と表記されることが一般的かと思いますが、私は「ボジョレ・ヌーヴォー」と表記させていただきます。