ある日、香りの印象
フランス人は若いうちから男女ともに香りを纏っている。コロンなど軽いタイプから始まり、両親や祖父母、恋人などからプレゼントされるようになると、数種類を場面によって使い分けるようになる。肌が弱い人のためにアルコールフリーのものが売られているし、ベビー用などもあるため、生まれたときから香りが生活の一部となっていることがわかる。
私は一度ホームステイ先の家族から、
「シホも香水くらいつけたら」
とプレゼントされたことがあり、体臭で迷惑を掛けているのではないかとひっそり凹んだことがあった。迷惑を掛けていてもいなくても、フランス人にとって香りは身だしなみの一環なのだろうから、と郷に従った。
フランスのバスルームには、香水だけでなく洗浄用の石鹸やシャンプー類まで一人一人が好みのものを揃えるため、兄弟姉妹が多いご家庭などは、さまざまな容器がずらずら~っと並ぶことになる。スーパーなどで品定めしている人は、自分好みの香りかどうか、また、カップルなどは相手もその香りを気に入るかどうかを確認したりしていた。皆、サンプルと書かれた容器の蓋を開けてクンクン、とやっているのだが、サンプルの状態が悪い(容器がベトベトとか中身がないとか)と、新しいものを開けてまで確かめている人も見られた(私は一度、誰かに開けられて蓋が汚れているものを購入しそうになったことがあったので、それ以来、容器を慎重に確認するようになった)。
スーパーのものでも、大抵の場合肌タイプに合わせた商品を扱っているから、敏感肌用も容易に見つけることができる。ただ、センシティブタイプは無香料であることが多い。そのため、肌に優しく香りも欲しい場合は、専門のショップを探すことになる。スーパーによっては、コスメショップやドラッグストアが入っている店舗もあり、店員さんに相談しながら品物を探すことができる。私の肌は“砂漠肌”と診断された(表面に水分を補っても、中がカラカラだからすぐ乾くらしい……)。アレルギー体質でアトピーであることを伝えたところ、ゼラニウムの香りがする商品を勧められた。今まで自分では選んでこなかった、華やかな香り。使ってみたところ、痒みに対するイライラなどが心なしか落ち着いた。香り=香料という感覚で、肌には刺激になるんじゃないかと考えていたけれど、アロマテラピーというだけあって、香りの効果を多少なりとも実感した。
フランスにいると、芳香は身体からだけではなく、手紙や名刺などからも漂ってくることが分かった。香水を吹きかけている場合もあれば、香り付きのインクで手紙をしたためたり、押し花などを添えている場合もある。フランスでは小学生の頃から万年筆を使っているから、インクの色だけでなく香りにも好みが反映される。プロヴァンス地方ではラヴェンダーを摘み取ってすぐ押し花にしたり、紙に漉いて香りごと閉じ込めたりしている。
香りに表れるセンスから、「この人ってこういうところもあるんだ!」と新たな一面を発見したりもする。ひょっとしたら、フランス人は私が思っている以上に香りから情報を読み取っているのかも知れない。
あるとき、語学留学中お世話になっていたステイ先のローラが、ご自宅に勤め先の若者たちを招いたことがあった。フランス海軍勤めだったローラ(といっても、彼女は事務職だと思われる)は、アルノーとクリストフという2人の海兵さんを連れて来た。アルノーは黒髪で、きりっとした目元。クリストフは丸刈りで、くりっとした目をしていた(彼は最初自分のことをジェームズボンドだと名乗った)。背も高く体つきもガッチリしている彼らに、イタリア系フランス人のローラは、お皿にこんもりとお手製のパスタを用意した。ルパン三世のアニメ映画『カリオストロの城』で登場したような盛られっぷり。これで彼ら2人がパスタを巻き取るように奪い合ったら面白いのに、と心の中で期待していたのだが、クリストフはくるくると巻いたパスタを紳士らしく女性陣優先で取り分けてくれた。
男性2人に合わせていつもよりガッツリした食事になったためか、ローラは食後にハーブティーを勧めてくれた。私は消化促進のためレモングラスにでもしようかと思ったのだが、黒すぐり(カシス)があったので、そちらにすることにした。ジャムで食べたときは、ブルーベリーよりやや酸味が強く、爽やかな甘みのある香りがしていた。お茶にするとどんな味や香りになるのか気になったので、選んでみたのだ。
「何を選んだの?」
アルノーに聞かれ、私はティーパックの外袋を彼に見せた。
「へえ、美味しそうだね。香りは?」
お湯が注がれたカップをアルノーの前に差し出すと、彼は湯気を手で扇ぎ、鼻を動かした。
「う~ん、香りがしないね。ティーパックはほとんど味がしないから、匂いがないと楽しめないよね。僕のはほら、すごくいい香り」
そう言って彼は自分のカップを私の目の前に置き、湯気を嗅ぐように勧めた。
アルノーが何を選んだのかは忘れてしまったが、確かにいい香りだった。頑強そうな海兵さんにしては甘~い香りだったので、ちょっと可愛らしいな、と思ったことを覚えている。だからアルノーを思い出すとき、甘い香りも一緒によみがえってくる。意外とスイーツとか好きなのかも知れない。選んだ香りから、彼がどんな人なのかを想像したりする。
脳の仕組みによって、嗅覚は記憶を呼び起こすと言われている。誰かが纏う香りは、その人の存在を他者に印象付ける役割を担っていることになる。それを意識しているかどうかは別として、普段から香りに親しみ、香りから個性を感じ取っているであろうフランス人に自分のことを印象付けるには、嗅覚に訴えることが大切なのかも知れない。だから、日本では一定数人気のある“無臭”という概念に、「なぜ人気なの?」と不思議がるフランス人がいるのも頷ける。
私もフランスから戻ったのち、場面に応じて香りを纏ってきた。営業に出るときにはユニセックスな香りを選んでみたり、1対1で話すときにはベルガモットの香りで自分も相手もリラックスできるように、とか。近年は事務職が続いているので、自分でブレンドしたアロマで少しでも気分を高めようとしている。私の纏ってきた香りが、誰かの印象に残っていたりするだろうか。私の嗅覚と結びつく記憶が、誰かを思い出したりするように。