ある日、それぞれの拘り

マチルダはいつもテンガロンハットをかぶっている。TPOに関係なく、彼女の頭にはその帽子が堂々と据わっているのだ。アメリカのドラマや映画で、女性がフォーマルドレスにお気に入りのブーツを合わせるシーンを2・3回見たことがあるが、自分の拘りを貫く人は映画だけの話ではない。マチルダに限らず、私はフランスで強い拘りを持つ個性的な人々と出会ってきた。

例えば、ラシェルの旦那さん・ローランドは肉切りナイフ。おそらく、ライヨール(ラギオール)だと思う。柄が動物の角でできていた。私がラシェル宅にお邪魔し、お肉料理を頂くときには、テーブルに彼の持つナイフと同じ形状で、柄の素材の異なるものが並ぶ。私は柄の違いだけだと思っていたのだが、ラシェル曰く
「ローランドのはちょっといいもので、彼専用だから他の人は触らないの」
とのことだった。彼は大皿のお肉を切り分けるときも、自分のお皿の肉料理を食するときも、そのナイフを使っていた。ホストである旦那さんがお肉を切り分けるのは他のご家庭でも当たり前だったが、そういうときはもっと大きなナイフが使われていたので、ローランドのナイフは切り分けるには小ぶりに思えた。でも、
「これは切れ味抜群なんだ」
と目を細めたローランドが、30cmはあろうかという肉塊をそのナイフでたやすく切り分けていたので、私もその切れ味には舌を巻いた。
「肉にはこれじゃないと」
と呟くように言った彼の一言からしても、肉=専用ナイフ、というローランドの拘りが垣間見えた。私も1つ欲しくなってしまったのだが、わたくし、ライヨールタイプのナイフで刃と峰を逆さに持った経験あり。しかも1度や2度ではなく。無意識にそうなっていたので、自分でもなぜだか分からない。幸い、刃に指を添えても切れたりしなかったのだが、ローランド仕様のものだったら、指の腹をざっくり切ってしまいそう。そんなわけで、そそっかしい私はローランドからナイフの詳細を聞かず、購入を見送ることにしたのである。

ほかには、タバコに拘りのある人。木製パイプ派のドク(『ある日、子牛の皮と胡桃の樹』で登場した装丁教室のムッシュー)がおもむろにそれを取り出し、慣れた手つきで火を点け、片手に持ってふうっと煙を吐く姿は堂に入っていた。
コミュニティセンターで日本語を習っていたムッシューは、葉巻タイプのタバコしか吸わなかった。葉巻と言っても、彼が吸っていたのはマフィア映画とかで見かけるような(その名の通りお菓子のシガールくらいの)大きさのものではなく、一般的なタバコと同サイズのものだった。
「香りが全然違うからね」
センターの入口近くの喫煙場所で見かけたムッシューはそう言って、嬉しそうに葉巻をくわえていた。
余談だが、このサイズの葉巻(たぶん、リトルシガーと言うのだろう)は、7cm四方ほどの缶に入っている。缶の一辺は蝶番になっており、上蓋が開くようになっている。タバコの缶なんて珍しいから、私はちょっとした小物入れにいいなぁと思っていた(今回と、『体調管理は心身ともに健やかに』の中でも写真を載せています)。そんなとき、私はとあるカフェの前を通り掛かり、テラス席の上にその缶が置かれているのを見た。テラスには誰もおらず、テーブルには食後と思われる皿やグラスが残っていたため、私はお客が吸い終わったあと置いていった空き缶なのだろうと思い、捨てるのであればと持ち帰ることにした。思えば、きちんとカフェの店員さんにでも断ってからにすべきだったのだ。それなのに、空き缶だから捨てられるという勝手な思い込みから、私はしれっとその缶を頂いてしまった。そのとき、私はニコと一緒にいたのだが、話しながら5分ほど歩いたのち缶を開けてみてビックリ!何と、葉巻が3本入っていた。
(こ、これは空き缶ではなかった?!)
うろたえる私を横目に、ニコは
「あ~、シホが盗んだ!」
とニヤニヤしている。取ってから(この場合は“盗る”が正しい?)中途半端に時間が過ぎており、何と言って返せばいいのかも思いつかず(そのまま戻って正直に謝り、返せば良かったものを……)、私は途方に暮れた。
「持ってきてしまったけど、私、タバコ吸わないから葉巻はニコにあげようか?」
などと自分勝手な提案をしたところ(証拠隠滅を図ったわけではありません!)、ニコは両手を胸の高さのところで大袈裟にぶんぶんと振り、
「僕を共犯にしないで」
とこれを拒否した。結局、私は返却するという行為に及ぶことができず、日本に帰ってきてしまった。今でもその缶と葉巻は私の手元にある。おそらく、この缶を置きっぱなしにしていた人物は、中身だけでも返してくれ!と思ったのではないだろうか?吸わないくせに持ち去ってしまって本当に済みません。記念に(戒めに?)大事に取ってあります……。
更に余談だが、アルセーヌ・ルパンシリーズの中では葉巻がたびたび登場し、嗜好品としてだけでなく小道具として使われている。確かルパンはハバナ産の葉巻がお気に入りだったと覚えている。
葉巻とルパンと私。窃盗繋がり?!

話をマチルダに戻そう。
彼女はニコの友達の友達で、時々一緒にお茶をしたり飲みに行ったりした。蜃気楼が見えた?と思うような暑い夏の日中も、身体まで吹き飛ばされそうになるミストラルが吹く日でも、彼女はテンガロンハットの装いを変えなかった。ニコがマチルダを手話で表現するとき、その帽子に見立てたくらいだ(彼は両手を帽子のつばを持つような形にして額の前にかざし、片方の手を斜め上に、もう片方の手を斜め下に引き伸ばすように動かしていた)。
マチルダは黒髪に鼻ピアス、ゴス系のメイクで顔のインパクトが強い一方、性格は控え目で口数が少なかった。何度か一緒に出掛けたときも、私だけでなく周囲のほかの人ともあまり言葉を交わさなかったから、人見知りだったのかも知れない。彼女は普段ジーンズなどのカジュアルな服装が多く、そういうときはテンガロンハットもあまり違和感がなかった。だが、ワンピースを着てきたときも頭の上にはその帽子が乗っていて、ゴスメイクとも相まり、首から上が異常に目立っていた。
あるとき、私はニコに誘われ、マチルダを含めた5・6人で街中のクラブ(?)に行くことになった。そのクラブはバーとしてお酒を提供しながら、毎日異なる音楽イベントを開催していた。ジャンルはシャンソン・ジャズ・ラテン・フラメンコ・タンゴ・オペラ・ジプシースウィング・ケベック音楽・アルプホルンのほか、ワールドミュージックや50年代ポップスなど、多岐にわたっていた。音楽目当ての人もいれば、単にお酒を飲みに来る人もいて、入口で入場料を払うにも関わらず混雑していたから、それなりに人気があったのだろう。音楽は店の中央で演奏され、周囲には申し訳程度に椅子とテーブルが置かれていただけなので、大抵の場合は立ち見状態だった。運よく私たちは空いている席を見つけ、半数がお酒を注文しにバーカウンターへ、もう半数が席を確保するためその場に残った。マチルダは帽子を席の背もたれに掛けバーへと向かい、私は確保組として席に留まった。何人かが席に座ろうとして、その都度
「連れが戻ってくるので」
と残ったメンバーで死守していたのだが、ちょっと目を離した隙に一人の男性が
「ウェーイ!」
と言いながら乱暴に席へ腰掛けた。既に出来上がっていると見えるその男性は、背もたれに寄り掛かって足を投げ出している。刺激しないほうが良さそうなので、席には順番に座ることにして、残った私たちは注文組が戻って来るのを待った。
戻るなり、マチルダははっきりくっきりの目を更に大きく見開き、男性がもたれている椅子の背を凝視した。
(あ、帽子……)
彼女の視線から、私もその席にマチルダのテンガロンハットがあったことに気付く。
「シホ、あいつ、私の帽子潰してない?」
グラスを持ったまま佇み、男性を見下ろすマチルダ。薄暗いクラブ内で、彼女のゴスメイクは迫力倍増だ。
「す、済みません、ちょっと背中を~」
私のほうが慌ててしまい、男性の背を起こして帽子を掴む。
「大丈夫、潰れてはいなかったみたい」
帽子の山は背中側ではなく外側に向いていたため、潰されずに済んでいた。
「ありがとう」
口の端だけ上げて笑ったマチルダは、大事そうに山とふちを整えながら、ゆっくりとテンガロンハットをかぶった。
もし帽子を潰されていたら、控え目な彼女でも男性に食って掛かったかも知れない。
そんな空気を肌で感じ、席の確保だけでなく帽子もおろそかにしてゴメンね~!とヒヤリとしたのだった。

使い勝手の良さ、嗜好、愛着。それぞれが拘るものを大事にしている。ローランドはずっと長く使えるよう、ナイフの手入れを怠らなかったし、ドクは生涯パイプを手放さないだろう。マチルダの頭上には今でもテンガロンハットが君臨しているだろうか?歳を重ねた今、TPOを考え控えているかも知れないし、帽子自体が傷んでしまったかも知れない。かぶらなくなったとしても、彼女は手元で大切に保管しているだろうな。長い間拘ってきたものは、そんなに簡単に手放したりできないものだろうから。

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