ある日、ミザリーではないけれど
殺風景なマンションが立ち並ぶパリ15区のとある道すがら。大きな荷物を抱えた黒人女性が歩いて来た。歩道は狭く、車道にはあまり手を掛けられていない装いの路駐車が連なっている。背後を気にしつつ、私は車の間をぬって車道へ歩を進めた。歩道が狭すぎて、壁にへばりついてもその女性を通すことができないからだ。この界隈では、パンパンに膨れたビニール袋をいくつも持ち歩いている人や、スーパーにあるようなカートを引いている人をよく見かけた。
私は3か月ほど、語学留学のためこの地区で暮らした。学校が借り上げているマンションの一室は、外観と同様に殺伐としていた。花を飾ったり、暖色系のタピを敷いたりしてみたが、体感がぬくもりを覚えるまでには至らなかった。滞在期間が冬場だったこともあり、せっかく大きな窓があるにも関わらず、薄墨色の眺望を目の当たりにするにつけ、私は扉を固く閉ざした。それでも隙間風がぞわぞわと身体を震わせる。日本の100均って、何て素晴らしいんだろう!パリでは断熱材が簡単には手に入らず、私は持ち合わせの新聞紙やプチプチを、ひんやりとした壁の継ぎ目に沿ってちまちまと貼り付けていた。
首筋に走る悪寒は、室温が低いせいだけではない。先日、近所の美容室で髪を切ったのだ。しかも、刈られるほどに短く。語学学校のクラスメイトは、私が長い髪をばっさり切ったことよりも、刈られた襟足に驚きと興味を示した。
「あんた、チャレンジャーだねぇ~」
美容師見習いとして働きながら学校に通っているタクマくんは、感心しているのか呆れているのか分からないようなつぶやきとともに、私の襟足を下から上に撫でつけた。
「すっげえ、ワカメちゃんみたい」
ワカメちゃんの頭を触ったことがあるのか?!そりゃ、鏡越しに自分の後頭部を見せられたときには私も同じことを思ったけどさ。
決して私は「ワカメちゃんにしてください」などとは頼んでいない(もし頼んでも、パリじゃ通じないだろうし)。こんな風になるはずじゃなかった。
事の発端は、パリの冷気だ。髪は伸ばしたままにしようと思っていた。でも、バスタイム後に乾かさず放置した髪が、冷え冷えとした空気を頭皮から送り込んでくる。ドライヤーがないため、どんなにタオルドライしても頭が凍るように冷たくなっていき、全身が震えてくる。パリに来る前、南のほうに滞在していたときは、ドライヤーがなくてもすぐ乾いた。思えば、季節も緯度も過ごしやすい環境だったのだ。
(髪を短くすれば、この寒々しい状況がちょっとはマシになるはず)
単純に冷えから逃れたかった私は、近日中に美容室へ行こうと心に決めた。今までいた南仏の小さな街とは違い、パリだったらそこら中にお店がある。日本でも有名なサロンとか、日本人スタッフのいるお店だって探せばすぐ見つかるような大都会なのだ。フランス語だけでなくファッションの専門用語も拙いのだから、オーダーのことを考えたら、同胞の方にお任せするのが一番だ。
そんなことを考えながら、いつもの狭い歩道を歩いていた。子ども連れの黒人男性が歩いて来たので、私は車道へ出て親子を通そうとした。そのとき、道の反対にある店のガラス窓に掲げられていたポスターに目が留まり、私は車道を横切ることにした。その店が美容室であることは以前から知っていた。いつもはテカテカつるんとしたコート紙に、派手派手しいモデル(ネオンカラーで化粧し、巻いたり固めたりしてボリュームが強調された金髪の女性とか)を起用したポスターが多かったのだが、今回はとてもすっきりしている。胸から上のモノクロ写真。バックも白。写真をそのまま引き伸ばしたかのように、輪郭がかすれマットな質感のポスターだった。モデルのメイクも抑えめ。髪型は、内田有紀さんがデビューした当時といったところ(モデルは欧米人ですが)。非日常の華やかなポスターばかり見ていたので、こういった感じもOKなんだ、と窓ガラス越しに中の様子を窺う。3人くらいを相手にするようなこぢんまりとした店内。椅子に座って髪をセットされている女性が1人いて、ドライヤーをあてているのは30代くらいの女性だった。
(どうしよう……。ここにしちゃおうか?)
ガラスに貼られていた料金表も、一般的なパリのサロンと比較すると格安(確かカットで3000円くらいだったと思う)。オーダーは、「あのポスターみたいに」って言えばいいことだし。
というわけで、私はフランス初・通りすがりの美容室で髪を切ることにしたのである。
店に入ると、ドライヤーの女性があら、という感じで「ボンジュール」と声を掛けてきた。アジア人の客は珍しいとでもいうような様子で私を見ている。L字型の店内の奥からもう1人、40代くらいの女性美容師さんが顔を出し、「ちょっと待ってて」と入口横の椅子に座るよう勧めてくれた。どうやら、もう1人お客がいて、シャンプー中だったようだ。
30代くらいの女性は『SATC』でのミランダ(シンシア・ニクソン)、40代くらいの女性は『ミザリー』でのアニー(キャシー・ベイツ)のような雰囲気。
(やっぱりやめておいたほうが良かったかな?)
でも、もう椅子に座っちゃったし。「やっぱりやめます」とは言いにくい。斧やハンマーを連想したわけではないが、何となく逃げられないという強迫観念が……。「どうかカットはミランダで!」と祈っていたのだが、悲しいかな、私のカットはアニーが担当することになった。
「綺麗な黒髪ねぇ~。カット?」
「はい、あのポスターのようにしてください」
「外のポスター?ずいぶん切ることになるけど?」
「はい、いいんです」
「じゃあ、イメージを変えましょう!こっちへいらっしゃい!」
アニーは予想に反し、明るくて気さくな人だった(そりゃ、『ミザリー』じゃないんだから……)。シャンプー台は日本ほど快適ではないものの、すっぽりと首がおさまったので疲れたり痛くなったりすることはなかった。だが、顔に布などを当ててはもらえないので、アニーの真剣な顔が嫌でも目に入る。目を逸らしているつもりなのに、なんか見ちゃってる。私の頭をアニーの大きな手がざぶんざぶんと揺さぶるたび、私は身体を硬直させた。顔に水滴が飛ぶんですけど~!
ポンポン、と軽くタオルドライし、席へ移動。雫が滴るくらいだったが、すぐさまカットに移った。
(まぁ~、思い切りの良いことで!)
ジャキ~ン、という音まで聞こえそうなくらい、一気に肩の長さまで切られる。今まで私の一部だったものが、ざらざら~っと床へ落ちていく。その後、多少左右を見ながら切り揃えてくれたが、ものの数十分でカット終了。そして、ブワワワ~っとドライヤーでセット。またしてもアニーの大きな手で頭をグワングワンと揺すられ、気付いたときには「はい、終了」と全ての工程が終わっていた。
私はアニーがドライヤー後に微調整のカットをしてくれるのかと思っていたのだが、まったくその気配ナシ。でも、でもですよ。私はポスターのような髪型(ショート)を依頼したのですよ?この髪型は、いわゆる”おかっぱ”というヤツだと思うのですが?
「どう?」
満面の笑みで問いかけるアニーに対し、私はポールさながらに意見してみることにした。
「あの、外のポスターはもう少し短いと思うんですが……」
するとアニーは
「そう?こんな感じだと思うけど、それならもう少し短くしましょう」
と言って、カフェエプロンのポケットからおもむろにバリカンを取り出し、私の襟足に当てた。
(いや、そうではない!そうではなく!!)
誰も刈ってくれなんて言ってない~!!!
心の声を口に出す間もなく、私の頭はワカメちゃんにされてしまったのだった。
普通、そんな目に遭ったらその美容室には二度と行かないと思う。でも、私は行ってしまった。どうしてもおかっぱに納得できなくて。きっと、私のオーダー方法にも問題があったのだ。「横をもう少し短く」と言えばショートにしてくれるに違いない!
前回と同じく、窓ガラス越しに中を覗く。アニーとミランダが、2人がかりで黒人女性の髪をセットしていた。
「あら、いらっしゃい」
半月もしないうちに再び現れた私を、2人はにこやかに迎えてくれた。
黒人女性が終わるまで、10分ほど待つ。その女性は黄色と赤の民族衣装を来ていた。ゴーギャンが描いていそうな色彩豊かな衣装だ。薄暗い冬の景色が一気に華やぐ。2人の美容師は、毛量のある黒髪と格闘している。かなり強めにブラシを当てているが、黒人女性はビクともしない。どうやったのか、そのうち髪は円錐状に巻き上がってまとめられ、3人は笑顔になっていた。
(私も店を出るときには笑っていたい……)
どうか、今日はショートにしてもらえますように!
「あの、今度は横をもう少し短くして欲しくて」
私の要望を聞き、2人はああ、なるほどね、というように目を合わせ頷いたので、私もきっと今度は大丈夫、という気持ちになってきた。
シャンプーの流れは前回と同じ。今度はミランダが洗ってくれた。アニーより指が細く手が小さい分、頭の支え方が不安定だ。でも、顔に水滴が飛ばないよう、加減してくれているようだった。タオルドライもアニーよりは丁寧。このままカットもミランダがしてくれるのか?!
と思ったら、カットはやはりアニー。どうしよう。またしても嫌な予感……。
耳に掛かる長さだったサイドの髪を、耳が出るくらいまでカット。そして、またしてもバリカン。
(いや、だからなぜ、バリカン?!)
また何も言い出せないまま、ジジジジジ、と剃られる音がやたら耳に大きく響く。
「どう?前よりさらにすっきりしたわね」
アニーは笑っていたが、私は作り笑いもできず、複雑な表情で鏡の中の自分と向き合う。どうやら、ミランダは私の思うところを察したらしく、
「あなたの髪だと、あのポスターのような髪型の再現は難しいのよ」
と肩をすくめた。
次の日、学校でタクマくんから
「あんた、本当にチャレンジャーだねぇ」
と今度は本気で呆れたという口調で言われ、ですよね~、私もそう思う~、と心の中で溜息をつく。
「どんな風になってんの?」
私の髪を指でつまみ上げたタクマくんは、うひょっという好奇の声をあげ、おかしくてたまらないというように
「シホさん、ツーブロックにされてるよ」
と声を震わせた。
なにそれ~。知らんがな~!
このときまで、私は刈り上げとツーブロックの違いを理解していなかった。理解したところで、その後そんなオーダーをすることはなかったのだけれど。最終的に、私は襟足が刈り上げ・サイドがツーブロックになったちんちくりんの頭で、花の都の冬を乗り切ることになったのである。
先週髪を切ったとき、ふとあのときのことを思い出した。
「どんな仕上がりにしますか?」
と聞かれた私は、「金麦の石原さとみさんみたいな感じで」と答えた。断っておきますが、石原さとみさんになりたかったわけではありません。そんなに図々しくありません。「ショート」とだけ言われたら美容師さんも困ってしまうだろうと思い、ぱっと思いついたのがCMで見た彼女の髪型だったのです。
で、今回、全工程が終了し、首に巻いていたタオルを取られたあと、美容師さんが
「あ、襟足」
とバリカンを取り出したのだ。もう、トラウマ!たぶん、おののいてました(笑)。私の過去事情を知るはずもない美容師さんは、バリカンに抵抗があるとでも思ったのだろう。
「産毛が見えているところだけですから!上の髪が掛かって、剃ったところは見えませんから!」
と慌てふためいていた。上の髪が掛かっているということは、今、私の襟足はツーブロックということ?
1週間が経ち、すでに首元は新たな産毛でざらざらしている。