ある日、ヘビの巣窟へ
「すみません」
さて、今回は何だろう?
日本ではたびたび見知らぬ人から声を掛けられてきたが、フランスでも滞在期間の割には頻度がある。ボーっとしているのか、はたまた優柔不断なカモに見えるのか?日本の場合は間接的に勧誘へと進むケースが多かったので、それとなく察知し、回避できるようになった。一方、フランスは直接的に攻めてくる。「タバコ1本ちょうだい」とか「火を貸して」には「持っていない」で済むけれど、困惑するようなアプローチをされることもある。あるときなどは、お釣りの小銭を受け取った私の横へスススっと女性がすり寄ってきて、「そのお金があればパンが買えるから恵んで」と手を合わせて拝まれた。私の手の中のコインは2ユーロと10サンチームが1枚ずつ。当時バゲットは1ユーロしないで買えた。自分に余裕があればいいが、貯金を切り崩してやりくりしていた私は2ユーロをまるっと差し出すことに躊躇し、思わず「1ユーロならいいけど」と言ってしまった。その女性は納得せず2ユーロ要求してきたため、私も頑なになってしまい、「そんなに言うならこっちで」と10サンチームを渡したところ、「こんなんじゃ何も買えない!」と女性は逆ギレ。受け取ったくせに文句を言いながら去っていった。
あとで我に返ったとき、ふと思い出したことがある。故・野際陽子さんのアナウンサー時代の話だ。自宅で押し込み強盗に遭った野際さんは、数千円のお金を要求された際、1万円紙幣しか持ち合わせていなかったそうだ(当時のお給料は3万円くらいだったそうです)。そのため、「お釣りちょうだい」と言ったところ、強盗は「釣りがあるならこんなことするか!」と返したという。私が遭った女性は強盗ではないし、金額も桁違いだけれど、「1ユーロならいい」と言った私に「釣りなんかあるか!」と思ったことだろう。ちなみに、野際さんは強盗に1万円渡したところ、後日「心優しき姉さんへ」と添えられた封筒でお釣りが返ってきたそうだ。器の大きい人のやることは相手も変えるんだな、と感心しつつ、やはり見知らぬ人にはいつも構えてしまう自分がいる。
今回声を掛けてきたのは、37~42歳くらいの美術館勤めの男性だった。私が館内でフジタの作品を鑑賞していた際、「日本人ですか?」と近づいてきたのだ。
(この手の問いかけには慎重に対処しないと)
男性は私の横について作品の説明をしてくる。本当ならすぐにでも立ち去りたかったが、入場料を支払っているし、見ていない作品も多かったから、私はひたすら絵画から目をそらさず、適当に返事していた。
「絵が好きなの?」
「まあ、そこそこ」
「日本人は絵が好きだよね?」
「う~ん、どうでしょう。人によるかも」
「そうなの?小さな美術館なのに、日本人が結構来るよ」
(世界的に有名な画家の作品が多いし、街に観光スポットが少ないからじゃない?)
相槌に疲れ、心の中だけで返すようになっても、男性はずっとついてくる。
「あの、1人で見ているので、気にせず仕事してください」
「ああ、大丈夫。今は来館者が少ないし、作品の説明も仕事のうちだから」
(頼んでない!)
1人で静かに見たいんだよ、空気読んでくれ!と顔に出てしまっていたんじゃないかと思うが、幸い気付かれる前に他のお客が入館してきたため、男性は「ちょっとごめんね」と私から離れた。
(今のうちに逃げよう)
いそいそと出口に向かっていた矢先、
「ちょっと待って」
と男性が追いかけてきた。
「君、ひょっとして、この間新聞に載ったよね?高校でインターンしている人でしょ?僕に日本語を教えてくれない?ここに来てくれる日本人に日本語で案内したくてさ」
ここまでなら、仕事熱心な人なのね、と考えを改めたかも知れない。でも、そのあとの言葉に私の警戒アラームが再び発令された。
「学校に行ったけど、そのとき君はいなかったんだよ。これは運命だね!」
(学校に来た?運命??)
「コミュニティセンターにも問合せたんだ。でも、君はあそこで教えていないんだね。まあ、センターは大人数のクラスだから、もともと行く気はないんだ。個人的に教えてくれる人がいいんだよ」
(コミュニティセンターにも連絡したの?)
見ず知らずの人に自分の所在が知られているということに心がぞわぞわする。
「今、講義が忙しくなっているので、個人的には教えていないんです」
「それは大変だね。僕に何か手伝えることある?」
「いえ、特にないので大丈夫です」
「僕が君の時間に合わせてもダメ?手が空きそうなときはないの?」
「う~ん、ちょっとすぐには分からないし」
「じゃあ、今日、今からは?」
(今から???)
「もう仕事が終わるんだ。コーヒー1杯だけ付き合ってよ」
とにかく押しが強い。彼が学校やコミュニティセンターに連絡しているというのも気掛かりだった。
(また学校に来られてもイヤだしなぁ)
気分はまったく乗らなかったが、取り敢えずこのあとコーヒー1杯で乗り切って何とかしのごうと考えてしまった。その結果、私はドツボにはまることになる。ホント、昔の自分に言ってやりたい。嫌なら早い段階できっぱり断れ!!!(って、今もできてないけど)
美術館を出て近くのカフェへ向かう。混雑している店を見て、男性は
「これじゃ時間が掛かるよ。僕の家はすぐ近くだから、家に行こう」
と提案してきた。何もあるはずはないと思う反面、初対面で家に誘うってどうなのよ?!とますます疑心暗鬼になる。
「私はそこの公園でもいいんですけど?」
「あそこにはベンチがないんだよ。立ち話もなんだし、家の方がリラックスできるよ」
「でも、今日は何も用意してないし、また別の機会に……」
「気楽に日本語を教えてくれればいいから。それに、君、忙しいんでしょ?このあとコーヒー1杯だけ、ね?」
ああ、もう!
きっと逃げても後腐れなかったはず。でも、うまい断り文句を考えられなかった私は、男性のマンションの階段をどよ~んとした重い足取りで上っていた。
「さ、どうぞ」
外は日差しがあったが、室内は湿気を帯びて薄暗い。
(ギャッ!)
男性が電気を点け、部屋の中が明るくなったと同時に私の目に飛び込んできたもの。長さ5m・太さ20cmほどある大蛇が、部屋に渡された洗濯ロープに絡みつくような格好でぶら下がっていた。一瞬生きているのかと思ったが、こんなでっかい蛇が放し飼いのわけない。よく見ると、ビニール製の作り物だった。アナコンダってやつ?
部屋の間取りとしては1Kなのだろうが、日本の1LDKくらいの広さがある。その割には、さっきのヘビの作り物や床に直置きされた本、統一性のない家具などが乱雑に配置されていて、手狭で荒んだ印象を受ける。ファーストインパクトは怪しさ満載。
「今、コーヒーを入れてくるから。ここに座っていて」
ワインの酒樽を椅子にしていると言ったらちょっとオシャレっぽいが、汚れや痛み具合から、廃棄されていたモノの風情がある。手入れしていないところを見ると、趣味や拘りではなさそうだ。
(木が剥げてる……。ここに座ったら、服が引っ掛かりそう!)
大丈夫、日本語を教えるだけ、私には何も起きない!と祈るように心の中で唱えながら、男性がキッチンへ行っている間にドアの鍵を確かめる。
(良かった、開いてる)
万が一閉じ込められでもしたら、自分の行為を悔やんでも悔やみ切れない。
「あれ、座っていてくれて良かったのに。さあ、どうぞ」
男性に促され、慎重に樽に座る。さすがに薬は盛られていないと思うが、用心に越したことはない。猫舌を理由に、コーヒーには手を付けないでおく。
「美術館の案内ということだったら、家で日本語に訳してきますけど?」
「ああ、うん。それはあとでもいいんだ。最初は日常会話から教えてくれないかな」
当初の希望とは違う提案をされ、不信感が一層強まる。訝しそうにしている私の態度など気付いていないのか、男性は
「これらは日本語でどう言うの?」
とノートを差し出した。日本語に興味があるというのは嘘ではなさそうだ。数ページにわたってひらがなや漢字を書いて練習している。だが、問題は覚えたいと言っている文章のほうだ。フランス語で口説き文句が書かれている。
(ナンパのための日本語かい!)
やれやれ、と思わずため息が出る。そのとき、電話が鳴った。男性は出ようとしない。
「電話、いいんですか?」
「ああ、大丈夫。留守電にしているし。君の貴重な時間を潰しちゃ悪いからね」
ちょっと含みのある言い方が気になる。警戒心に同調するかのように、ピーッと留守電への切り替え音が鳴る。嬉々としてメッセージを入れた声の主は恐らく若い女性、そして日本語だった。
「あ、私、街を案内してもらった●●です!本当にありがとうございました!あなたはとってもいい人です!トレ・トレ・ジョンティっ!メルスィ!!」
内容を聞く限り、観光客らしき日本人女性からのメッセージだ。この子は喜んでいた様子だが、男性を不審に思っている私の心境は複雑だ。私の渋い表情などお構いなしに、彼は
「美術館へ来た日本の女の子だよ。1人だって言うから街を案内したり一緒に食事したんだ」
と得意そうに胸を張っている。この人は私も1人だったから声を掛けたのだろうか?寂しそうとでも思われたのか?それとも、日本人は簡単に引っ掛かるな、くらいに思っているのだろうか?のこのこついてきた私も私だ。何だか相手にも自分にも無性に腹が立ってきた。
やっぱりもう帰ろう、と意を決したとき、今度は別の音が室内に響いた。どうやら呼び鈴を押した人物がいるらしい。
「あ、しまった、忘れてた」
男性はそそくさとドアへ近づき、外にいた人物を中へ招き入れた。もしや、さっきの日本人女性だったりして?!という私の予想は外れ、ひょろりと痩せた10歳くらいの男の子が静かに部屋へ入ってきた。
「僕の息子なんだ。今日は妻のところへ送っていく日だった」
(息子?妻??)
妻子持ちなのに女性に声を掛けてるの?!と口をあんぐりさせてしまったが、送っていく、ということは奥さんとは別居か離婚しているのだろう。
「お父さんは彼女から日本語を教えてもらっているんだ。ジュースでも飲んで待っていなさい」
息子は黙って言葉に従い、キッチンへと姿を消した。父親の部屋に女性がいても驚いたり気まずそうにする様子はなかった。淡泊なのか、いつものことで見慣れているのか。っていうか、私とこの人は何でもありません!
「息子さんを送らないといけないんだったら、もうやめませんか?」
「いや、いいよ、息子はとても大人しいんだ。あまり意見を言ったりしないし」
「でも、約束してたんですよね?」
「じゃあ、君とはまた別の日に……」
「こういうことを覚えて、何をしたいんですか?」
詰め寄る口調になった私に、男性も多少むっとしたようだ。
「別に。君たちのような人に協力したいだけだよ」
「私たちのような?」
「僕が知り合った日本人はみんなフランスにいたいって言っていたよ。さっきの電話の子もそうさ。長くフランスに留まりたいけど、ヴァカンスでしか滞在できない。僕はそんな人を助けたいんだよ」
「どうやって?」
「そりゃ、結婚でもするさ。日本人は従順だし、息子には母親が必要だろ?」
うう、このゲス男が!1発、いや、数発殴らせろ!!!
キッチンから息子がジュース片手に部屋へ入って来たので、拳は握ったままで冷静を装う。
「私、帰ります」
「そう、じゃあね」
さすがに男性もそれ以上は引き止めなかった。
まったく、なんて日だ。心のうずきが止まらないじゃないか!
その後、私は二度と美術館に近づかなかった。風の噂で、館内には日本語の案内が置かれるようになったそうだ。誰かが男性に協力した際の産物かも知れないし、日本人が多いので館側が必要だと判断したのかも知れない。詳細は分からないし、知らないほうがいいこともある。
男性のことにしても、私は気が合わなかっただけで、電話の女の子のようにすごくいい人だと受け取った人もいるだろう。男性が何の目的で日本語を習おうが、誰を口説こうが、それ自体を非難することはできない。
感情を表さない息子は、父親と一緒にいる女性を見るたび、自分の母親になるかも知れないと思ったりしたのだろうか。切ない気持ちになるのは、こちらの一方的で勝手な感傷なのだろう。
相手に魂胆があってもなくても、自分がしっかりと意志を表せばいいことなのだ。あの心のうずきは、私自身が招いてしまったものなのだから。
もし、野際陽子さんだったら、どんな風に対処したのだろうか?強盗と遭遇しても肝が据わった態度で接した彼女のことだから、悩むまでもなく自分の意志を表していることだろう。
そんなことをふと考えたりする。