猫話~ラシェル宅のヨーヨー~
黒猫に対するイメージはさまざまだ。縁起が良いという人もいれば、その逆もまた然り。私が滞在していた南フランスでは、良い印象を持っている人が多かった。
「黒猫は幸福をもたらすのよ」
ラシェルはそう言って、ヨーヨーの頭から背を優しくすぅ~っと撫でた。肩から下半身にかけてふっらと丸みのある体形のその黒猫は目を細め、嬉しそうにフガ、と鼻を鳴らした。僅かな水滴がピ、と飛ぶ。彼の左鼻の穴から口にかけての肉は削げ落ちていた。そのため、猫特有のゴロゴロ音が、彼の場合は「フガフガ」と聞こえ、鼻水が舞うことがあるのだ。
「見た目はびっくりするかも知れないけど、とってもいい子なの。悪さはしないわ」
口を閉じていても左側の牙があらわになっているので、常に威嚇しているように見えるヨーヨーのことを、ラシェル一家は大切にし、尊重していた。
まず、抱っこをしている姿を見たことがない。理由は聞かなかったが、嫌がる猫もいるから、ヨーヨーもその類だったのかも知れない。膝に乗ってきたときなどは身体を支えていたが、胸に抱えるようなことはしていなかった。
ヨーヨーは首輪もつけていなかった。フランスではペットの首にマイクロチップを埋め込み、飼い主などの情報を特定できるようにしているとのちに知ったが、当時からそうだったのか・ヨーヨーがそうなっていたのかは不明だ。ラシェル家族の接し方を見る限り、チップのあるなしに関わらず、彼らは自分たちの嗜好を猫に反映させるつもりはなかったようだ。家の周囲が山と野原に囲まれ、目の届く範囲にほかの人家がないような所在だから、飼い猫かどうかを示す必要性がなかったのかも知れない。ヨーヨーはふらっと外へ出て、ふらっと戻って来る。彼に飼い猫の自覚があるのかどうかは分からないが、家族といる時間は適度にあり、夜も家で寝ていたから、ラシェル一家の一員という認識はあったのではないかと思う。
ヨーヨーは家族以外の人にも抵抗感を示さなかった。ラシェルの一人娘・当時小学生だったベリンの友達が訪れてもどっしりと構えていたし、身体も触らせていた。擦り寄って来ることはなかったものの、ツンツンしているわけでもない。気ままに過ごしているが、人間を振り回すこともない。絶妙な距離感とはこういった関係ではないか、と常々思わされた。
ヨーヨーの在り方から考察するに、削げた顔の原因は人間によってもたらされたものではなさそうだ。今まで縄張りでは出くわしたことがなかったであろう東洋人の私と顔を合わせても、彼の距離感はフランス人へのそれと変わらなかった。人慣れしているのであれば、人的被害の可能性は低い。事故?猫同士のケンカ?子猫をカラスが襲ったりすることもあるから、他の動物にやられたのかも知れない。ラシェルが保護したときにはすでに痛々しい状態だったようだ。ヨーヨーが巡り会えたのが彼女で本当に良かった!ラシェルは「こんな顔になってかわいそうでしょ」などと憐れむ言葉を一切口にしたことがなかった。また、いわゆる”猫可愛がり”に接するような素振りは微塵もなかった。ただただ愛情たっぷりの優しい言葉をヨーヨーに投げかけ、彼を見守っていた。「かわいい坊や」とか「いい子ね」などという言葉は、男の子がママから言われたらちょっぴりくすぐったく、ほんわりと温かく満ち足りた気持ちになるだろう。猫であるとはいえ、ヨーヨーもきっと同じ心地だったのではないだろうか。
ラシェル宅の周囲の原っぱには、ときどき野生のクジャクが現れた。フランスはクジャクの生息地ではないはずだから、どこからか逃げ出したか捨てられたかしたのではないかと思う。雄が一羽だけ、首をキョトキョト左右上下させながら野原を闊歩している。ヨーヨーは時折、この自分より大きくて華美な鳥を目を細めて見ていた。私は「自由な上に飛ぶこともできるんだ」と羨ましく思っていたりして、などと勝手な想像を膨らませていたのだが、彼は狙いを定めていたのかも知れない。いつもはのんびりおっとりとした彼が、耳と尻尾をピンと立て、だるまさんが転んだのごとく一歩進んでは片足を上げて静止、を数回繰り返したのち、低い姿勢から飛び出す姿を一度だけ見たことがある。このときの横顔は左の牙が見えている分、ギラリとした野生を強いインパクトで私に残した。
ラシェル宅に泊まる際、私は離れを使わせてもらっていた。どうやらそこはヨーヨーの休憩処でもあったようで、ドアを開けると部屋の中を彼が横切っていたり、ベッドの上で丸まっていたりした。黒くて丸いクッションだと思っていたらフガフガという寝息が聞こえたときには、倒れこまなくて良かった、世界共通のあるあるだわ、と内心苦笑していた(実家でニャンたちの擬態に気付かず、踏みつけて驚愕の叫びを上げさせていたっけ……)。ヨーヨークッションは、ビロードとまではいかないが、滑らかでフカフカした触り心地。無撚糸といったところだろうか?私が指を熊手のように立て、彼の毛をすいていると、フガーフガーと喉の音がゆっくり、大きくなっていった。暫くして、私はくしゃみが止まらなくなった。私はちょっとずつ色んなアレルギーがあり、猫にも反応する。渡仏する前は実家暮らしで、4匹の猫に囲まれていた。そのときは目や鼻が常にムズムズしていたが、軽度だし気にしていなかった。ラシェル宅に猫がいると聞いたときも、アレルギーのことは話していなかったし、話すつもりもなかった。余計な気を遣わせたくなかったし、ヨーヨーと一緒にベッドで寝たとしても、風邪の初期症状と間違われるくらいで大事ないだろうと思っていたのだ。
あるとき、ヨーヨーが私の枕の上で気持ちよさそうに眠っていた。近づいて顔を覗き込むとうっすらと目を開き、「このまま寝ててもいい?」というように上目遣いをしたのち、また眠りに落ちた。私はひとときの間、ヨーヨーと顔を突き合わせてベッドに横になっていた。距離が近すぎたのか居場所を変えたかったのか、ゆっくりと身体を起こし背中を丸めて伸びをした黒猫は、枕を離れトスッと床に下り、どこかへ行ってしまった。
(なんだ、もう行っちゃうの?残念……)
ちょっと寂しい思いを抱きつつ、私はヨーヨーの形に凹んだぬくもりの残る枕に頭を落とし、そのまま眠ってしまった。
「まあ、シホ!どうしたの?!」
翌朝ラシェルが驚くのも無理はない。私だって、起床後の自分の状態に仰天したのだから。顔や首が痒い。特に瞼の上。眼球にずっしり、のしかかる重みを感じる。くしゃみと鼻水が止まらない。風邪の初期症状は通り越し、完全に具合が悪い人に見える。
「部屋が寒かった?熱でもあるんじゃない?」
「ううん、大丈夫。風邪じゃないから」
「でも、何だか辛そうよ。病院へ行く?」
(いやいや、体は元気なの~)
これ以上ラシェルに心配を掛けるわけにもいかず、私は仕方なく、アレルギー持ちで猫にも少し反応すると打ち明けた。
「まあ、そうだったの?ごめんなさいね。ヨーヨーは離れに入れないようにするわ」
謝られてしまうと余計に申し訳ない。ラシェルもヨーヨーも、何も悪くはないのだ。
私がアレルギーのことを伝えなかったこと・実家にも猫がいて症状は軽症だったこと・そのためヨーヨーと一緒にいても大丈夫だと思ったことを慌ただしく説明し詫びたのち、「薬は常備していて、もう飲んだ」と伝えたところ、ようやくラシェルがほっとした表情を見せた。
言わないで済むものだったらそのままにしておこうと思った目算が見事に外れ、ラシェルに気まずい思いをさせてしまった。「ヨーヨーは離れに入れない」と言っていたが、私の方が彼の領域を侵している状況なので、「寝る前だけドアを閉める」ということにし、できる限りヨーヨーの行動範囲を狭めないでもらった。普段通りの行動ができなくなると彼がストレスを抱えるだろうし、そもそも私が可能な限り近寄らないなど注意すればいいことなのだ。
その後もヨーヨーは私が泊まる際、離れに顔を出してくれていたが、ベッドで眠ることはなかった。何かを察知したのかも知れないし、ラシェルから「いい子だからシホがいる間はベッドで寝ないでね」とでも言われていたのかも知れない(猫は言葉を理解しているっていうし)。
ラシェルとはクリスマスや新年のシーズンに手紙やメールのやり取りが続き、一家とともにヨーヨーも写真に納まっていた。このときも抱き抱えられることなく、床やソファーに座る彼の周りに家族が集まって撮っているような雰囲気だった。時候の挨拶とともに添えられる言葉はいつも「Bonheur(幸福)」。黒猫はラシェル一家にも私にも、幸せな気持ちを届けてくれる。