ある日、距離感を図る

「コンニショワ!」
(……無視……)
アジア人に対して適当な挨拶をしてくるフランス人をスルーできるようになったのは、あまり愉快ではない体験を何回かしてからだった。
リュックベッソン監督の『タクシー2』が公開されてから数年は「コンニショワ~」と話し掛けられることが多くなったが、それ以前の90年代は「日本人? 中国人? 韓国人?」と国籍を問われたものだった。アジア人なら誰でも良さそうな相手に対しても、当時の私は感じよく接しようとしていたので、「日本人です」と返答したり、挨拶に挨拶を返すなど、何らかの反応を示していた。

その90年代のある週末、美術館巡りのため地方の都市からパリへSNCF(フランス国鉄)で数時間かけて出てきたときのこと。
(あ~、堪能した~!)
館内に無料で入れる日とあって、早朝に家を出ていた私は、食事も摂らずひたすら美術館をはしごしていた。
(あと1つ行けるかな?でも、ちょっと何か飲みたい……)
効率よく回ろうと、目的地まっしぐらで歩いていたときは「話し掛けるな」オーラが出ていたのだと思うが、水を求めてキョロキョロと売店を探す一瞬の隙をつかれた。右斜め後方から突然、
「コンニチワ!」
と近付いてきた男性に、思わず
「こんにちは」
と反射的に返してしまった。私の反応を見て、嬉しそうにする男性。一方の私は、
(ちょっとマズい人に捕まったかも……)
と警戒態勢。リス・エヴァンス似で、髪はボサボサ、茶色く並びの悪い歯。少し舌足らずなのだと後から気付いたが、話し方が酔っているように聞こえたため、第一印象は怪しさ満載だった。
「君、日本人だね。どこから来たの?」
「あ~、もう帰ります」
「え? この近くなの?」
「いえ、メトロで」
早く飲みものを買って次の美術館に行きたかったので、私は答えになっていない返事をして適当にリスをまくつもりだった。しかし、公園内に入ってしまっていたため、メトロの位置を把握しておらず、反対方向に歩いていたようだ。
「メトロはこっちだと思うよ?」
「……」
「案内しようか?」
「いえ、ありがとう、大丈夫です」
それでもリスは一緒に歩くのをやめない。
(なんでついて来るの?)
これはきちんと言わないとダメでしょう!
「あの、私は大丈夫ですから……」
「あ~、気にしないで。君をメトロまで見送るだけだから」
「いえ、それは……」
「僕も同じほうに行くところなんだ。だからそれまで一緒に行くよ」
(ゲッ!)
思惑が外れ、私は困惑した。
(メトロなんて言わなきゃよかった~!)
適当な断り文句を言ってしまったことに今さらながら後悔する。
(やっぱり本当のことを言ってオサラバしよう!)
「あ、私、水を買ってから帰るので、気にしないで行ってください」
「じゃあ、僕も行くよ」
「いえ、一人で行けますから」
「僕もタバコを買いたいから付き合うよ」
「ハハ……。そうですか……」
(結局、ついて来ちゃうのね~!)
リスに「売店はこっち」と案内されるハメになり、私は引きつった愛想笑いで歩みを続けた。
(このまま走って逃げちゃおうか?)
ダメだ、荷物が重い。美術館でポストカードやらお土産のグッズやらを買ってしまい、ダッシュするにはそれなりの負荷が掛かる。しかも、リスが足の速いヤツだったらどうしよう?!
「オイオイ、せっかく親切に案内してやろうと思ったのに、なんで逃げるんだ!」とか、追いつかれて絡まれたら元も子もない。逃げ切ったところで、また出くわすかもしれないリスにヒヤヒヤしながら観光なんて、ちっとも楽しくない! 土地勘のない場所なのだから、迷ってウロウロしているところに再会などしてしまったら、今度こそ逃げられそうにないだろう。
頭の中がマイナスイメージでぐちゃぐちゃになり、ノーと言えなかった自分に自己嫌悪したのだった。

「タバコは吸う?」
水を買って一息入れる間もなく、リスが問い掛けてくる。
「いえ、全く吸いません」
「そうなんだ。じゃあ、僕も吸わないよ。君のために吸わないことにする」
くわえていたタバコを箱に戻すリス。
「気にしないので吸ってください」
と勧めたものの、
「いや、君が吸わないなら……」
リスは遠慮がちな態度を崩さない。
(タバコを買うためについて来ておきながら、君が吸わないならって……。心地悪いな~)
水を口に含み、足早にメトロ方向へと向かう。
(もう、美術館やめて本当に帰っちゃおうかな?)
月に1度しかない無料公開日を逃すのは腹立たしいが、早くリスと離れて本当に一息つきたかった。
「どこに帰るの?」
「オーヴェルニュ地方の街です」
適当にかわすことにも疲れ、本当のことを言う。
「え、どこ?」
どうやら、私の発音が悪く、街の名前が聞き取れなかったようだ。再度街の名前を言ってみたが、
「知らないな……。本当にフランスの街?」
なぜか疑いの眼差しを向けられる。
(発音が悪いだけで、れっきとしたフランスの街です!)
ちょっとムッとした私は、
「今朝、そこから来ましたけど?」
とリスの顔を見ずに答える。
「オーヴェルニュじゃ、遠いでしょ? 今日はパリに泊まればいいのに」
「ホームステイしていて、夕食は一緒にすることになってますから」
(本当のことだし!)
さっきまでの曖昧な返事はどこへやら、私は毅然とした態度でリスと接した。心なしか、リスの方も腰が引けてきたようだ。公園を出てすぐにメトロの入口があったので、私は
「さようなら」
とリスに頭を下げた。彼も
「じゃあ、気を付けて!」
とそれ以上は追って来なかった。
(美術館に行くのはまたの機会にしよう)
リスとグダグダ話したり歩き回っている間に、意外と時間を食ってしまったことが判明し、私はこのままステイ先へ帰ることに決めた。本当はもう少し先にあった別のメトロ駅のほうが、乗り換えなくオーヴェルニュ地方への玄関口・リヨン駅に着くのだが、
(乗り換えればいいことだし)
と、いつもとは違うメトロに乗ってしまった。

それまでにもメトロのリヨン駅を利用したことがあったが、地上に出てきたとき、
(あれ?ここからどうやって行けばいいんだろう?)
いつもとは見慣れない景色に、ウロウロしてしまう。馴染みのあったメトロの路線を使わなかっただけで、オーヴェルニュへ向かうSNCF乗り場への行き方が分からなくなってしまったのだ。
今まではメトロの駅から地下通路を通ってSNCF乗り場へ出ていたのだが、今回の路線では、一度地上へ出るようになっていた。渋谷で外国人が、地下鉄からJRへの乗り継ぎに迷ったりするときも、こんな気分になるのではないだろうか? その時の私も、
(同じ駅なんだから、近くにあるよね?)
と、少し歩いたらSNCFの駅が見えてくるものと思っていた。
それなのに……。
(どうしよう、どうしよう?!)
駅が見つからないだけではなく、電車の発車時間も迫っていた。ステイ先に、夕食には戻ると言って出て来たため、私はあと数十分程で発車してしまう電車に乗らないといけなかった。
幸い、チケットは往復で買っていたから手元にあるが、朝から水以外口にしていない。ステイ先の夕食は20時過ぎ。電車の数時間を空腹で過ごすより、できれば軽食を買ってから乗り込みたいと思っていた。
(取り敢えず、誰かに聞いてみよう……)
私はすれ違う人に助けを求めることにした。まず、背広を来た男性にフランス語で
「済みません」
と声を掛けた。すると男性は物乞いでも見るような目つきで私を見下し、不愉快極まりないという顔つきで無視した。その態度にヘコんだものの、気を取り直して次にやってきた2人組のマダムに同じくフランス語で声を掛ける。すると1人が不機嫌な声で、
「私はフランス人じゃないからフランス語は話せない!」
とフランス語で返してきた。もう1人の女性が申し訳なさそうに、
「ごめんなさいね。私達、イギリス人なの」
と英語で詫びてくれたが、そのまま立ち去ってしまった。
(ちょっと待って……。なんでみんな行っちゃうの?)
たまたまなのだろうが、連続してはねつけられてしまい、私はすっかり気落ちしてしまった。
行き交う人に声を掛ける勇気がなくなり、とうとう半ベソになりながら元の地下鉄出口へ駆け戻る。改札横の乗務員室にいた男性に
「SNCFに乗りたいんです! もうすぐ時間なんです!」
と、切符を見せながら泣きついた。
天然パーマにメガネの、ウォーリーに似ていたその乗務員さんは、私の態度から緊急事態を察知してくれたようで、慌てて乗務員室から飛び出して来てくれた。そして、
「いい? この階段を上って!」
と、自分の腕を階段に見立て、人差し指と中指でトコトコ、と上るジェスチャーをし、
「上ったらクルッと反対を向いて!(2本の指を反転させ)」
「そこからまっすぐ、信号を渡って少し行くと駅があるから!(指を空中でパタパタ走らせた)」
と分かりやすく説明してくれた。感謝感激!
「ありがとう! 本当にありがとう!!」
私は階段を上りながら彼に叫んだ。彼のほうも、
「気を付けて! 良い旅を!」
と飛び跳ねながら両手をブンブン頭の上で振ってくれた。
その後、私は発車5分前に駅へ到着し、急いで売店で水とクロワッサンを買い、自分の席へ滑り込んだ。もし間に合わなかったらパリへ泊ることも考えていた。でも、コスト面や、当時はホームステイ先への気兼ねから、この電車に乗って帰ることができたことを心からウォーリーに感謝したのだった。

こんなことがあってから、私は冷やかしの声掛けをスルーすることに抵抗感がなくなった。
数年後にインターンで渡仏した際は、話し掛けられたときの断り文句について、高校生から悪態の言葉を面白半分に伝授されたりもした。
しかしながら、はっきりとした意思を示すことが大事だとあらためて痛感したこの出来事により、私は悪い言葉を使うことなくスルーすることで、相手との距離感を心地よく保てるようになったのである。

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