ある日、「誰も気にしないわ」
(直すべきか、買うべきか……)
トングのベルトが壊れて以来、暫くはスニーカーだけで過ごしてきた。だが、靴の傷み具合や夏場のムレなどを考えると、ベルトを修繕するか買い足したほうが良さそうだという結果に落ち着いた私は、暑苦しい足元に目を落としながら街中を歩いていた。
エスパドリーユは軽いし涼し気なのだが、靴底のジュートと布地のキャンバスがきっちり縫われているので、あまり伸びしろがない。少し大きめにして中敷きで合わせれば良いのかも知れないが、滞在中困らない程度のものを探していたので却下(夏にインナーを分厚くさせたくもないし)。それに、私の足は左がエジプト型(親指が一番長い)・右がギリシャ型(人差し指が一番長い)をしているため、指先に余裕がない靴は避けたかった。
以前、私の足の形のことをマリーに話した際、
「蚤の市に行けば片足の靴を売っているから、左右それぞれでぴったりのものを買えば?」
と真顔で言われたことがあった。
「それって、左右で形の違う靴を買うってこと?」
「そうよ」
「え~、それだと単に履き間違えたみたいじゃない?」
するとマリー、
「誰も気にしないわよ」
とあっさりした答えを返してきたのだった。
そんなこともあったなぁと思いつつ、左右異なる靴を履きこなせるようなファッションセンスを発揮するのは無理だろうという諦めもあり、私は指先が解放された靴を探すことにしたのである。
滞在期間も残り数か月となっていたので、私はちゃちゃっと買うものを決め、すぐにショッピングを終わらせるつもりだった。元々自分の買い物ではあまり迷わないタイプだったし、早くスニーカーから解放されたいという思いもあった。それなのに、今回はどうでもいいことで迷ってしまって、すぐには決められなかった。薄底のサンダルは石畳を歩くと疲れそうだ。厚底だと帰国時の荷造りでかさばる。もう、和装用に持ってきた草履で凌ごうか?とも思ったが、それなりのお値段がしたしデリケートな造りだから、数か月でダメにしちゃうのは忍びない。いろいろと迷いながら数店舗を回った結果、ソールは薄いが歩きやすそうなトングを見つけた。トングを買うのであれば、壊れたものを直した方がいいんじゃないかとも思ったのだが、修繕代とそう変わらない値段で一足買えるということが分かったので購入を決めた。親指と甲のベルトが独立しているタイプで、型押しで花や蔦の装飾が施されている。左右で微妙に色が違う(ショーウインドゥに飾ってあったので、日光に当たっていた部分だけが焼けてしまったものと思われる)ことを指摘したら、多少まけてくれた。
それからのほぼ毎日、私は新しいトングを足のお供に、足裏を程よく刺激する石畳や乾いた砂利道・陽炎や逃げ水が現れるくらい熱されたアスファルトの上を闊歩した。
思っていた以上に摩耗が激しい。そりゃ、ほぼ毎日同じ靴で歩いていたらそうなってしまうだろうなぁとすり減ったソールを眺めながら、私は早めに踵を補強することにした。だが、滞在していた街中には修繕やさんがない。郊外の大型施設に行かないとダメとは聞いていたが、場所がよく分からない。マリーに確認したところ、歩いて行くには距離があるから、バスで行くしかないとのことだった。独り暮らしをする前、RDP家にホームステイしていたときは自転車を貸して頂いていたので、自転車でも行けない距離ではないようだったが、今は足になるものがない。
「駅の郵便局前から出るバスに乗るのよ。大型スーパー・DIY店舗・電気製品の店舗が並んでいる場所が見えてきたら降りなさい。スーパー内の薬局近くに修繕やさんがあるわ」
マリーから行き方の説明を受けていたとき、私たちの話を聞いていた司書の女性(ラシェルの同僚)が
「あそこに行くんだったら、私も行くから乗せて行ってあげる」
とありがたい提案をしてくれた。
「靴を直すところに案内してあげて」
「分かったわ。初めてだと広いから迷ってしまうでしょうし、任せておいて」
私は二人にお礼を言い、初めて話をする司書女性に多少緊張しながら、彼女の車で靴を直せる場所までドライブすることになったのである。
郊外の商業施設というだけあって、交通量が多い。
「公害が問題になっているのよ」
司書女性は眉をひそめながら、でかでかと広告が描かれた大型トラックの往来を一瞥する。東京だと特に珍しい光景ではない。だが、何年も掛かって成長した樹木や国をまたがって流れる大河に囲まれた古い街並みから、車線の両脇に所狭しと立ち並ぶ看板や渋滞する車の波に身を置き換えると、公害のせいだけではなく息苦しさを感じた。太陽が出ているのに空が薄曇りに感じられるのも、滞在する街で清々しい青空を幾度となく眺めてきたから分かるようになった感覚なのだろう。
「ほら、見えてきたわよ」
コンテナのように四角く平坦な施設が3・4つ左側に見え、CastoramaやAuchanなどの看板文字が読み取れた。店舗前には、駐車スペースが広々と作られている。ぼーっとしていたら、車をどこに止めたか分からなくなってしまいそうだ。
「私たちが行くのはあっちよ」
Auchanは街中にもあるが、規模は桁違いだ。入口から50mほどの通路を抜けると吹き抜けになっていて、天井から光が差し込み、明るく解放感がある。池袋サンシャインシティの噴水広場のような雰囲気だが、天井はもっと高い。1階は食料品などの日用品・2階から上が専門店になっていて、百貨店並みの規模だ。
私は天を仰いでいたが、司書の女性はずんずんと進み、吹き抜けから別の通路へ入っていく。彼女が私の方を振り返り、立ち止まって「こっちよ」という風に頭を傾けたので、慌てて後を追う。
通路の中ほど・右手片隅に、こぢんまりとして日本と似た店構えの修繕やさんがあった。女性が店主に踵の修繕を依頼し、
「このサンダルなの」
と私の履いているトングを指さした。
「じゃあ、脱いでこの台に置いて」
男性店主は素っ気なく言い放ち、作業中の靴に再び取り掛かり始めた。
(えっと、履き替え用の靴とかは……)
しばし間を取ってみたが、そんなものを用意してくれるような素振りはない。
(椅子もないよねぇ)
修繕中に座って待てるという状況でもなさそうだ。
実は、マリーに修繕の相談をしたときは、別の日に店へ行くつもりでいたからトングを履いてきていたのだ。ところが、急遽ここへ連れて来てもらえることになったため、履き替えの靴などは用意していなかった。まあ、椅子ぐらいは用意されているだろうと思っていた自分が甘かった。当たり前のように享受していたけど、日本って、お客様目線の気遣いが行き届いていたんだよねぇ~。
「あの~、私、履き替えの靴を持ってきていないんです」
折角連れて来て頂いたのに、やっぱり今日はやめておきますとか言いにくいなぁと思いながらの発言だったのだが、彼女は何が問題なの?とでもいうように
「裸足でいいじゃない」
と言ってのけた。
「ハダシ?」
「そう」
「靴を履かないで、立っているということですか?」
「まさか、違うわよ。私と一緒にお店を見て回りましょう」
「ハダシで?!」
「そうよ」
(いやいや、それはちょっと……。こんな大きなお店の中をハダシで歩き回るってのはどうなんだろう?)
非常識・マナー違反・不衛生という言葉が頭の中を駆け巡る。だが口から出た言葉は一言
「大丈夫なんですか?」
だった。
「もちろん。誰も気にしないわ」
ううむ。左右違う靴を履いていても、ハダシでも、皆さん気にしないんですね!
抵抗感はあったものの、トングを台に置き、仕上がり時間を確認したのち、私は明るい吹き抜けの場所へ戻って行った。ヒタヒタと、床の感触を自分の足で感じながら。
すれ違う人が足元を見て不愉快そうな顔をするんじゃないかとか、何か言われたりするんじゃないかとキョロキョロしてしまったのだが、彼女の言う通り、誰も気にしていない様子だった。こうなると不思議なもので、ハダシって楽~!とステップでも踏みたい気持ちになってきた。掃除が行き届いていると思われる綺麗なショッピングモールだったので、足の汚れや怪我の心配は最小限で済んだ。司書女性の用事(時計の電池交換)を済ませ、ブラブラとウィンドーショッピングを楽しんでもまだ引き取りまで時間があったので、女性がアイスクリームをおごってくれた。
そして踵が新しくなったトングを履いたとき、安定感は増したけど親指のベルトがきつくなったんじゃないかと感じるくらい、ハダシの解放感は威力絶大だった。
フランス人は個人主義で、自分勝手だとか他人に無関心だと受け取る人がいる。だがそれは利己主義であって、個人主義ではない。少なくとも、私の友人たちは個人を尊重し、他人を思いやり、適度な距離感を持って人と付き合える人たちだった。マリーや司書女性の「誰も気にしないわ」という発言は、あなたは何からも自由だ、という意味だと思うが、何をしても許されるということではない。今回のハダシにしても、たまたま誰からも白い目で見られなかっただけかもしれない。現に、RDP家の三女が高校の校庭を裸足で歩いていたとき、年配の女性教師が「裸足なんて!!!」とあからさまに不快感を表した一方、若い教師が「これくらい、イマドキはフツーですよ」と反論するシーンに出くわしてしまった。人によって、公共の場をハダシで歩く行為は嫌悪されたかも知れないと気付く。
個人の自由と尊厳が守られ、一人一人が責任を果たし、社会生活を共に行っていく。そこに国籍や宗教は関係なく、一人の人として見られている。フランス人が個人主義かどうかは一概には言えないが、彼らとの体験によって、自分がどうありたいか、どうあるべきかを少し掘り下げて考える機会が増えた。