ある日、品位ある女装
ニコが足を骨折した。アイススケートで、パラプリュイ(フランス語で傘という意味:足を大きく振り上げて飛んでから回転に入るフライングスピンのことだと思われる)をして転倒したそうだ。私がいつものように日本語レッスンでニコ宅に出向いた際、松葉杖姿で出迎えられた。で、こうなるといつものパターンでレッスンはナシ。ただのお見舞いになってしまった。
足の怪我は経験上、本当に不自由だ。松葉杖を使わなくてはならない程度だとなおさら。使い始めの頃は手にまめができるし、段差やトイレなど日常生活でも一苦労。中が痒くなったときも手が入らず耐えるしかない(届きそうな範囲には定規とかを使って掻いていたけど)。雨のときは両手が塞がるから傘も持てないし、つるんとした舗装道路だと滑って転びそうになる(実際、転んだ)。それに、ギブスを取ったときのことはいまだに苦痛と怒りを覚える。小型の電動のこぎりでギブスを切っていくのだが、何度か痛みを覚えたので対応していた看護婦さんにその旨伝えた。そうしたら、「ギブスが熱で溶けて熱いだけですよ~」と言われたけど、ギブスが外れたとき、数か所に切られた跡があった。
「あら~、切れちゃってたわね。ごめんなさい」
私の足を拭きながら悪びれもせずしれっと言ってのけた看護婦さん。電動のこぎりが自分の身体に迫ってくる恐怖を感じたことがあるのか???ホラー映画を実体験させられたんだぞ!!
……ニコの話に戻ろう。何かできることはないか尋ねたところ、手伝って欲しいことがあると言う。
「何を手伝えばいいの?」
「ゲイの女装パーティーに行って欲しいんだ」
「???私が、女なのに、女装したゲイのフリをするってこと?」
ニコ、爆笑。
「なわけないでしょ!僕がパーティーに出るから、一緒に行って準備とか手伝って欲しいんだよ」
「準備って?」
「着替えとかいろいろ」
(……。着替えを私に手伝え、と?)
「あのさ、それ、私に頼むこと?」
「さっき、何かできることはない?って言ったのはシホだよね?」
「そりゃ、そうなんだけどさ……」
これまたいつものパターン。ゲイの女装パーティーに参加するニコの手伝いを任されることになったのである。
パーティー当日の夕方。ニコのマンションを訪ねると、ベッドに女物の洋服が置かれていた。透け感のあるシルクシフォンの長袖ブラウスに、ゆるいプリーツのロングスカート。
「これって、誰かから借りたの?」
「まさか。ネットで買った」
(そっか。ニコサイズだと、借りられる人がいないか)
彼の身長に合う女性となると、スーパーモデルくらいなものだろう。
「これもネットで買ったんだ」
ニコが取り出したのは、『チャーリーズ・エンジェル』でキャメロン・ディアスが変装の際被っていたような黒髪おかっぱのカツラだった。
「どう?本物の毛じゃないけど、悪くないでしょ?」
ニコは私に同意を求めたが、私としては黒髪を見慣れていたし、彼の肌色などから黒よりも金髪の方がいいのでは?と感じていた。だが、折角お金を出してまで手に入れたものにケチをつけるのもどうかと思ったので、適当な相槌を打っておいた。
「で、これに着替えたいんだけど」
(ちょっと待ったぁ~!)
心づもりがないまま、いきなり着替えを始められても困る!
「あのさ、念のために聞くけど、女性モノの下着をつけたりとかするわけ?」
私の質問に、ニコはああ、そうか、という顔をした。
「僕はつけない。つけるゲイもいるけど。あ、でも、胸は入れるよ。大きすぎるのはイヤだから、タオルとかを小さめに詰める」
「そ、そうなんだ」
私は目を白黒させながら、これからいったい何をすればいいんだ?と頭をぐるぐるさせていた。
「じゃあ、スカートをはくときに手伝ってもらいたいから、ちょっと後ろを向いててくれる?準備ができたら声を掛けるよ」
(あ、そういうこと?)
女装の着替えを手伝う=着付け的なイメージでいたので、私は目のやり場に困ってしまうんじゃないかと一人で焦っていた。そうではなかったのね~。私の早とちりだったのね~!(ホッ)
そのあと、ブラウスを着た状態のニコから声が掛かったので、ギブスでうまくバランスが取れない彼の身体を私が支え、スカートをたくし上げる手伝いをするはずだった。だが、私とニコの身長差では身体を支えることができなかったため、結局ベッドに座ってスカートをはいてもらった。
「これなら一人でできたね」
というニコに、二人して苦笑い。私は着付けを想像していたから考えが及ばなかったけど、スカートをはくときだけの手伝いを想定していたニコなら、気付きそうなものなのでは?
それはそうと、ニコの装いをチェック。肌の露出を嫌う彼は、長袖ブラウスの首元にシルクスカーフを、ロングスカートの足元に靴下タイプのストッキングと、ギブスでない方の足にはハイヒールを合わせていた。服装だけで言うと、『トッツィー』でのダスティン・ホフマン。お化粧はというと、目元に紫のシャドウを何回も重ねているので、杜若色に見える。口元も古代紫色の口紅。
(なぜ、紫?)
彫の深い欧米人がダークな色のシャドウを塗ったら、余計にホネが強調されません?その唇も、健康的には見えないんですけど……?
私は取り敢えず、紫より別の色の方がいいのでは?とだけ感想を述べておいた。ニコは、これがいい、これでいいんだ、と言い聞かせるように呟きながら、鏡の前の自分を見つめていた。
パーティー会場はニコの家から徒歩15分くらいのところにあった。普段ならその程度の距離だが、ニコは松葉杖をついていたから倍ほどの時間が掛かったように思う。さすがにヒールでは歩けないので、靴などの荷物は私が持ち、会場で履き替えることにしていた。
会場となっているお店の間取りは逆さ反転L字型で、入口から奥へ細長く続くバーカウンターを左に曲がると、小さなステージが突き当りに設置されていた。物は何も置かれていないので、普段どのような用途で使われているかは不明だが、ミュージック・バーというところだろうか?だとしたら、複数の楽器を持ち込んで演奏するにはちょっと手狭に思える。店内はすでにお客で一杯で、話し声と流れている音楽で騒然としていた。ニコが店員に何かを確認し、店員はカウンター横の階段を指さした。ニコは何かを訴えていたようだが、店員は肩をすくめただけだった。おそらく、階段を上らなくて済む方法を確認したが、どうにもならなかったのだろう。私たちは人をかき分け、2階へ上がった。傾斜が急な階段だったから、ニコは1歩ずつ慎重に上って行った。一応、私は彼のあとに続き、万が一に備えて身構えていた(でももしニコが足を踏み外したら、二人して転げ落ちるだけだったと思うけど)。2階左側のドアに、「控室」と掛かれた貼紙があり、中へ入る。ニコと同じように女装したゲイの人たちがいて、その装いとは似つかわしくない声色で談笑していた。ニコは声が高いので女装しても大した違和感はなかったが、他の方々は声に迫力がある。金髪のゆるい巻き毛カツラに、胸元がざっくりと開いたノースリーブの純白ドレスを身にまとった大柄な方が、
「マ~リリン・モンローよぉ~(低くて太い声を想像してください)」
と言って口を半開きにしたままウインクしてきた(私には『フローレス』でのフィリップ・シーモア・ホフマンにしか見えなかったが)。その瞬間、ニコはモンローさんに背を向け、さもイヤそうに舌を突き出して一言
「醜い」
とのたもうた。
(おい~!聞こえたらどうすんのさ?!)
私は気付かれていないか?とモンローさんの様子をちらりと窺ったが、幸い、他の人たちと話していて気付いていないようだった。
「女性はもっと慎ましいものでしょ?あんなにむき出しで、下品だよ!」
インドネシアに一時期滞在していたからなのか、あるいは露出がイヤだからムスリムの国へ行ったのか、ニコは肌が露わになっていることを心底嫌がっていた。
「ちょ~っと、アンタ、ゲイじゃないでしょ?何でここにいるのよぉ(低音でかすれた酒焼けボイス)」
背後からお叱りを受けたのはニコではなくどう考えても私だ。振り返ると、ミニスカートに網タイツを合わせた細身の方が腕組みして私を見下ろしている。気付くと室内のゲイ各位が「ただの女がなぜ?」という顔をして私を睨んでいる。
「足が不自由だから彼女に手伝ってもらったんだよ」
ニコはギブスの足を振り上げ、「文句あるか?」という表情で皆様方に厳しい眼差しを向けた。モンローさんが
「それなら仕方ないわよねぇ」
とハンカチだか何だかをひらひらと指先で振ってみせると、他の皆さんが「フッ」と鼻で一笑し、それぞれ化粧直しや髪型のチェックに戻っていった。
「僕は参加者だから、ここに居なきゃいけない。シホは下に行っていて」
このあと、女装クイーンを決めるコンテストがあるらしく、私は控室にいられなかった。階段を下りるときは他の参加者に手伝ってもらうとニコが言うので、私は一人で階下のバーに戻った。周囲は女装していないゲイの人たちも大勢いて、相手を見つけようとしている人がお互いに様子を探っていた。女性も何人かいたが、みな友達と来ているようで、ぽつねんとしているのは私だけのように思えた。さっきのように睨まれたり、以前のようにレズの方からアプローチされたりするのは困るので、壁の花になっておく。すると突然、本物の真紅のバラが一輪、目の前に差し出された。
(えっ、なに?)
差し出した相手は、ロマン・デュリスに似た黒髪の男性で、何も言わず微笑んでいる。
(こ、これはひょっとして、ゲイではない男性からのアプローチ?!)
ちょっとイケメン。私の苦手な初対面のシチュエーションだ。でも、お花を頂くことはやぶさかでない!とはいえ、これはどういった意味なのだ???
私が受け取るのをためらっていると、男性の後ろからひょっこり小柄な年配の女性が顔を出し、
「どうぞ、皆さんに配ってますから」
と言ってすぐ男性の後ろに下がった。
(皆さんに配ってる?)
見知らぬ男性からバラを差し出されるなんて、自分には起きたことのないシチュエーションだったから、周りが見えていなかった。見渡すと、大勢の人がバラを持ち、ステージ前へ集まり始めていた。
(なんだ……。私だけに起きたことじゃなかったのね)
ちょっと複雑な気持ちのままバラを受け取ると、男性は一言も口を開かず静かな微笑みをたたえたまま、軽く会釈してその場を離れた。貴族なのかしら?会話はお付きの人を通してする、みたいな。でも、さっきの女性はお付きというより乳母かな?時代が時代なら、アルセーヌ・ルパンの小説に出てくるビクトワール?(そういえば、ロマン・デュリスもルパン役を演じたっけ)
私が妄想を膨らませている間に、どうやらコンテストが始まったようだ。ステージに参加者が出てくると、取り巻きがわっと前へ詰めかけ、バラを渡そうとしている。
(このバラって、投票の代わりってこと?)
花びらの巻き加減や開き具合が綺麗に整った一輪だったし、ほのかに香るアロマは嫌味がなかったので、私は持って帰る気満々でいた。前の方では、取り巻き同士の小競り合いが始まっている。
「ちょっとアンタ、押さないでよ!」
「何よ、アタシが先に渡すのよ!」
……みなさ~ん、地声になってますよ!!!
あの中に入っていったら、絶対もみくちゃで花も自分も潰されちゃう!
ステージ上では、参加者が決めポーズみたいなものをクネクネとやっている。モンローさんは地下鉄風もないのにスカートを何回も手で押さえ、半開きの口でウインクを繰り返していたし、網タイツさんは腰に手を置き、脚線美を見せびらかすようにしていた。ニコはというと、ちょっと達観したような顔で何もせず佇んでいた。他の参加者はバラを獲得しようと前面に出てアピールするものだから、とうとうステージ上でも小競り合いが始まった。網タイツさんが
「一人で幅取ってんじゃないわよっ!」
とモンローさんの前へ出ようとしたら、モンローさんが髪を何度もバサッと後ろにかきあげ、網タイツさんが前に出るのを阻止していた。網タイツさんはモンローさんの背中を押しながら、
「そこの人!アタシ綺麗でしょ!そのバラちょうだ~い!」
とか言っていたし、モンローさんも四股を踏むときのように低くしゃがんだ体勢で
「ほらアンタ!さっきアタシを見てただろ?花をよこしな!!」
と両手で手招きしていた。お目当てがいるわけではない人たちの中には、ガンガンアピールしてくる参加者に半ば呆れてバラを渡した人もいたようだ。ニコにある意味「花を持たせ」たいと思っていた私も、アピールさんたちの勢いに阻まれ、ニコに渡すことができなかった。ニコはずっと後方に下がっていて、一輪も手にしていなかった。誰もあげようとしなかったのか、ニコが受け取らなかったのか、はたまた私のように渡せなかったのか。ステージ上で何も手にしていない彼は誰よりも毅然としていて、最後まで品位ある女装を続けていた。
パーティー後、ニコの家に着いたとき、私はバラを彼に渡した。
「ありがとう」
少し疲れた顔でにっこりした彼は、着替える前に一輪挿しの花瓶を取り出し、すぐにバラを活けていた。
どうしてコンテストに参加したのか理由は分からなかったし、その後も私は理由を聞かなかった。ニコはクイーンになりたかったわけではないと思う。彼は目に見える形で何かを得ようとするタイプではないと、短い付き合いだが私はそう感じているからだ。誰かから認めてもらわなくても、彼は自分を確立し、自分を大切にしている。普段の生活において、彼の暮らしぶりは丁寧だ(ときにはハチャメチャになるけど)。もっと似合う服装やお化粧があると思うけどなぁ、と最初はニコの女装について心の中でツッコミを入れていたが、ステージ上の彼は凛としていた。その姿を思い出すにつけ、私も背筋が伸びる思いになるのである。