ある日、飲みすぎにはご用心!
フランスのボルドーと聞いて、思い浮かべることは何ですか? という問いに対し、恐らく多くの人が「ワイン」と答えるのではないだろうか。
ロンドン発着でヨーロッパ13か国を巡るワールドワイドなバスツアーに参加していた私がボルドーを訪れたのは、2000年の春先。今では観光名所となっているブルス広場前の水鏡こそなかったものの、大聖堂や大劇場など歴史的な建造物を見て回ったり、カヌレを頬張ったりする時間もない、ツアーの中継地として寝泊りするくらいの短い滞在だった。
それでも、せっかくボルドーに来たのだからワインくらいは飲みに行こうと、イギリス留学中にツアーへ参加していた日本人のヒトミちゃんと2人、夕食に出掛けた。
カウンター席に座り、さて、ワインと一緒に何を頼もうか……と考えていたところ(残念ながらカキにはまだ早いシーズンだった)、ヒトミちゃんは男性ソムリエにおススメを聞き、「飲むよね?」と聞いてきた。そのとき、私は食事リストを見ながら軽い返事をし、“飲む”がどの程度か想像していなかった。
「つまみはナッツくらいでいいよね?」
再び彼女に問いかけられ、
(んんっ? ナッツですと??)
私は食事リストから顔を上げた。食べることを考えていた私とは対照的に、彼女はワインリストを見ながら、「あー、これも気になる~」などと呟いている。
「あの……。ヒトミちゃんは食事しないの?」
「あ~、私、飲んでるときはあんまり食べないんだよね~。お酒飲む人って、そうならない?」
(私は食事と一緒に飲みたいから、料理も注文したいな~)
今ならすんなり言えるであろうそのセリフが、当時の私には出てこなかった。まだ知り合ったばかりの人前で自分をさらけ出せず、1人ガツガツと食事をすることに躊躇したためだ。それに、「お酒を飲む人って」というヒトミちゃんの言葉に、
「いや~、私、普段はそんなに飲まなくってさ……」
などと言ったら
「ちょっと、今さらかわいいフリしたってダメ!」
と反論されそうな状況が、この数日過ごしただけの私達の間には既に起こっていたのである。
もともと私は誰かと一緒に楽しく飲みたいほうで、1人で飲むことはほとんどない。飲酒自体がすごく好き、というわけではないから、友達との食事や飲み会でもない限り、頻度も1か月に1度あるかないか。飲まない人と食事に出掛けたときは自分も飲まずに過ごせるし、ストレス発散や疲労回復だったら、アルコールより甘味の力を借りてしまう(私の甘いもの依存率は365日、100%……)。
それなのに、体質的にはお酒に弱いほうではなかったらしく、酔いが顔に出るほうでもなかったから、飲むときは平均的な女性の飲酒量よりやや多めに摂取してしまっていた。
前置きが長くなったが、今回はワールドワイドツアーということもあって、日本だけでなくさまざまな国の人達が参加していた。そういった参加者と仲良くなるきっかけとして、まさにお酒を酌み交わす、という状況だったのだ。私もホテルでの食事やナイトツアーなど、アルコールが提供される場において、みんなとワイワイお酒を楽しんでいた。
その様子を見ていたヒトミちゃんから、
「シホちゃん、結構飲んでたよね」
と言われていたため、「お酒飲む人って」という発言からも、彼女は私のことを酒飲みと勘違いしているようだった。
そんな彼女に、先述のような飲まない発言をしようものなら、反論されることは容易に予想できた。
(う~ん、まあ、大丈夫かな?)
過去にホームステイをしていた家庭では、滞在中毎日ワインを飲んでいた。だからきっと、食事ナシでも酔いつぶれることはないだろう!
こうして私は、「ナッツでいいよね?」の彼女の問いかけに同意することにした。高を括ったわけではないが、根拠のない自信と、相手に合わせることができる(合わせてしまう)適応力の高い(曖昧な)性格から、この夜、私は純粋にワインを楽しむ事態に陥ったのである。
このツアーがボルドーを訪れたのは出発してから3日目くらいだったから、私達はお互いのことをほとんど知らなかった。ヒトミちゃんが私を食事に(飲みに)誘ったのは、彼女が“飲む”人で、同じように飲める人と出掛けたかった(彼女の同室は同じ語学学校の日本人女性で、その人は下戸だった)からであることが判明した。
(やっぱり、私のこと勘違いしてるよね……)
下戸ではないものの、私はお酒だけをガンガン飲めるわけではなかったので、彼女の飲酒ペースに段々不安を感じていた。お互いのことやツアー参加者のこと、私と同室のオーストラリア人・リンダのこと(私は一人参加だったので、同じく一人参加のリンダと同室になった)など、他愛もない話をしながら、私達はナッツ1皿だけで赤ワインのフルボトルを2本空けた。
人見知りなのに、仕事では希望していなかった営業職に就いていた私は、職業病なのか自己防衛本能からか、ミラーリングをしがちだった。このときも私は意識せずヒトミちゃんのミラーリングをしてしまい、早いペースでグラスを空けていく彼女に続いていた。彼女は全くビクともしていなかったが、私は1本空いたくらいから結構フワフワした気持ちになっていた。
話の途中、男性ソムリエが何度か話に入ってきては、国籍やどこから来たのか、私達はどういう関係かなどを聞いてきた。私はこのツアーのあと、半年間フランスで語学留学する予定だったので、フランス語で彼と話をしてみた。彼は理解できたのかできなかったのか(あるいは私の呂律が回っておらず、聞き取れなかったのか?)、当たり障りのない返事を返してきた。
ヒトミちゃんは流暢な英語で話をし、彼の方もそれを理解してお互いに笑っていた。私はここでもミラーリング。何がおかしいのか、全然理解できてません。でも、笑っとこう……。
そのとき、既に私は結構出来上がっていたのだと思う。
「そろそろ行こっか」
閉店時間間際となり、ヒトミちゃんがお開きの一言を告げる。2人で支払いを済ませ、私はそそくさと席を立った。眠気が襲ってきたことや、朝にはボルドーを離れて次の拠点へ向かうため、早くホテルに戻って準備をしておきたいという思いがあった。あまり遅くなっては、リンダが迷惑に思うかも知れない、と心配にもなっていた。
次々と客が帰っていくなか、まだまだ飲めそうなヒトミちゃんはソムリエの彼と話を続けている。一方の私は、動いた衝撃で一気に回ったのか、急に気分が悪くなった。
「ゴメン、先に外へ出てるね」
小走りで外に出た私は、テラスのテーブル席に一度腰を下ろし、顔を伏せた。どんどん状態は悪くなっていく。ヒトミちゃんが「大丈夫?」と声を掛けてくれ、「うん」と言ったつもりだったが、うなっただけになってしまう。
「タクシー呼んでもらうね。我慢できそう?」
頭を縦に振ったそばから、私は粗相してしまった。シャッターを閉めるために外へ出たソムリエの男性に、ヒトミちゃんがタクシーを呼んで、と言っていたようだった。まだ知り合って3日目の彼女や、観光で訪れただけで今後2度と来ることはないかも知れない店のソムリエに迷惑を掛けている。しかも思い入れの強いフランスで粗相したという状況に、私は別の意味で顔を上げられなかった。情けなさすぎる……。
タクシーが来るまでの間、そっとしておいてくれたのか近づきたくなかったのか、ヒトミちゃんとソムリエは少し離れた場所で話をし始めた。人通りがなくなり、周囲が静かだったせいもあるが、すごく気分が悪くても意識はあったようで、2人の会話が耳に入ってきた。
ソムリエが「君、綺麗だね。メールアドレスを教えてよ」とヒトミちゃんを口説いていて、彼女は笑ってお礼を言っていた。はぁ~っ、酔ってなかったらダッシュで退散したい!!!
タクシーが来て、倒れ込むように座席に乗り込む私。ヒトミちゃんはソムリエと外国流の別れの挨拶をしている。
(邪魔するつもりはないんですが、早く乗って~!ホテルに戻りたい!)
どのくらいタクシーに乗っていたか覚えていないが、ホテル到着後もまだグデンとしている私を、ヒトミちゃんはテキパキと彼女の部屋に連れて行ってくれた。迷惑の上塗りで、私は同室ちゃんを起こしてしまった上、部屋の一部を占領してしまった。それなのに2人は「きっと疲れが出たんだね~」と私を優しく気遣ってくれた。ううっ。重ね重ね済みません……。
しかし、事態はここで収まらず、私は翌朝の出発前まで迷惑を掛け続けることになるのである。しかも、他のツアーメンバーにまで。
朝になって起き上がれるようになった頃、私は自分の身の回りを確認してみた。部屋の2人はまだ眠っている。
(ああ、狭い思いさせちゃったなぁ。起きたらきちんと謝ろう!)
あまり物音を立てないよう、自分の着ていたアウトドアジャケットを手繰り寄せたとき、私は大変なことに気付いた。
(貴重品を入れていたバッグがない!)
バサバサとブランケットやシーツをめくる音に、部屋の2人も身体を起こす。
「あ、具合はどう?もう大丈夫?」
「ありがとう、昨日はごめんね、大丈夫じゃないかも……」
「は?」
お礼とお詫びと動揺を一度に聞かされ、ポカンとする2人。
「ヒトミちゃん、ひょっとして私のバッグ、持っててくれてる?」
「え、自分で持ってなかった?」
昨夜の私の行動を彼女から聞いたところによると、どうやら、私はタクシーに乗るまでそのバッグを持っていたそうである。ということは、タクシーの中に忘れてきた?
酔いが一気に冷めるとはこういうことか、と実感しつつ、さて、どうすればいいんだ? とグルグル考えを巡らせる。
(えっと、ボルドーって大使館あったっけ? パスポートを紛失した場合、申請からどのくらいで再発行されるんだろう?お金は……って、それもないじゃん! カード止めなきゃ! まだ3日目なのにツアーともお別れ???)
現実的な問題が次々と浮かんでくる。そして、どれから手を付けたらいいか、途方に暮れていたときだった。
ドアをノックする音がして、ツアーコンダクターの女性の声がした。
ヒトミちゃんがドアを開けると、彼女はルームガウンを着たままの姿で、私を探していると言った。私がいるはずの部屋に行ってみたもののいなかったので、私の所在をヒトミちゃん達に聞きに来たという。慌てて顔を出すと、彼女は少し困惑した顔で
「警察から電話があって、あなたのバッグを預かっていると言っているわ」
と私に告げた。
私のバッグが警察にある!
取るものもとりあえず(というか、それを取りに)、ボルドー警察へ急ぐ。私を心配したヒトミちゃんと同室ちゃんが付き添ってくれた。時間は6時台だったと思う。地図を見ても多少迷い、30~40分ほど歩いただろうか。何とか警察に辿り着き、署内にある遺留物の受け渡し場所へ。
2人の男性警官がニコリともせずじっとこちらを睨んでいる。朝早くから外国人が俺達の手を煩わせやがって、というような顔つきだ。
オドオドと名前を伝えたところ、
「これ?」
と、パスポートを見せられる。
「ウイウイウイ!」
まだ酔ってるのか? というようなテンションで、私は「はい」を連呼した。警官はパスポートの写真と私の顔を見比べている。
(あ、それ、数年前だから。髪型違うけど、顔同じでしょ???)
自分の顔とパスポートの写真を交互に指差し、どうだ、同じでしょ? と言わんばかりに大きく頷いてみせる。警官は目を大きめに見開いて、はいはい、と呆れたようなリアクションをした。
「タクシーの運転手が、ホテルで降ろした客がバッグを忘れたと言って届けてきたんだ。朝出発するらしいと言っていたから、ホテルに連絡した。中身はこれで全部?」
バッグを渡され、中を確認するよう促される。良かった! カードとトラベラーズチェックは無事だ。だが、現金は幾分かなくなっていた。
お金を出すところを見られるとすられる、という話を聞いたことがあったので、私は現金を財布には入れず、いくつかに分けて持ち歩いていた。そのうち、バッグに直入れしていた現金、確か、支払いのときに確認したときは100と200フラン札がそれぞれ2枚と、20フランコインが1枚残っていたのだが(20フランコインはモン・サン・ミシェルがデザインされていたため、よく覚えていた)、お札が1枚ずつとコインがなくなっていた。
なくなっていることを言うべきかしばし迷った末、「全部です」と答え、引き取りにサインをした。そもそも、記憶違いかもしれないし、誰かが取ったのだとしてもそれが誰だか分からない(運転手さんか、その後の乗客か、警官の可能性もある)。出発の時間が迫っているのに、手続きに時間が掛かったら……。
さまざまな思いが交錯し、私はこう思うことにした。これは勉強代だ。ハメを外した、自分への戒めにしよう! 警察に届けてくれた、タクシー運転手さんにも心の中で感謝を伝える。
(海外ではパスポートやカードを売りさばく人も多いと聞きますが、あなたは本当に親切で良心的な人です! 名前も知らないけど、ありがとう!)
そうだ、彼は届けた際、この人達に名乗ったかも知れない。そう思った私は、立ち去る前に彼らがタクシー運転手さんの名前を知っているかどうか尋ねてみた。警官は2人とも首を横に振る。
「じゃあ、車の色とかは?」
私は少し食い下がってみた。特徴が分かれば、もしまたボルドーを訪れることがあったとき、何らかの形で会えるかもしれない。警官はやれやれという風に首をすくめ、「緑のNo.12」と教えてくれた。すごい! 番号まで分かった!! これで次に来たときは、指名することができるかも!!!
警官にお礼を伝え、ヒトミちゃんと同室ちゃんにひたすらお詫びしながら外に出たときには、朝日が昇っていた。昨夜は遅い時分に到着したため、街の様子がはっきりしなかったのだが、明るい陽射しのなかで見渡したボルドー市街は、重厚な佇まいで落ち着いた雰囲気が漂っていた。
そんな街中をゆっくり散策する暇もないまま、私達は速足でホテルに戻る。次の拠点への出発時間が迫っていたからだ。明るくなると街の様子も異なって見え、来た道を戻っているはずが、帰り道も多少迷ってしまった。出発時間には間に合いそうだったが、荷物の準備など、彼女達にも慌ただしくさせてしまうことが心苦しかった。何度も謝る私に、「大丈夫大丈夫」と励ましてくれる2人。「こんな経験滅多にないよね~、貴重だよ!」と笑い飛ばしてくれた。
ホテルに戻り、バタバタと支度をする。朝食時間には間に合わず、彼女達にはひもじい思いまでさせてしまった。にも関わらず、ヒトミちゃんは「出発前に水を買っておいたほうがいいよ」と私を気遣ってくれた。
既に荷物をバスに積み込んでいたツアーメンバーも温かく迎えてくれた。パスポートもカードも無事でした! と伝えたときには拍手や指笛が鳴った。リンダは「戻らなくて心配したのよ!」と怒ったようなホッとしたような声で私の肩を叩き、バスの運転手さんはウインクしてくれ、最年長の参加者・トリッシュはハグして背中をさすってくれた。
その日からツアー終了まで、私は通称「ラッキーガール」と呼ばれることになる。
その後もツアー中にお酒を飲む機会はあったが、失態を犯すことはなく楽しむことができた。ただ、飲む前にメンバーから毎回「気を付けて!」と冷やかされるようになったのだが……。