猫話~20年と6か月~
10月23日月曜日の朝、目が覚める前に短い夢を見た。覚醒したのかしないのかはっきりしない頭の中にブツブツと細切れの夢が出てきて、ほかの内容はまったく覚えていないのだけれど、最後の夢だけは覚えている。
私は実家にいて、猫のブランを探している。見つからなくて少し焦っている、という感覚があり、「ブラン、ブラン」と何度も呼んでいた。そうしたら、庭に面したガラス窓の下に置かれたクッションに丸くなっていたブランが目に留まり、ああ、ここにいたんだ、と安堵する。起こさないように、でも声を掛けたくなって「ブ~ラン」と声を潜めて名前を口にしたら、ヨロヨロと立ち上がって私の方へ近づいて来た。高齢で歩みがゆっくりになったその光景を近頃は見慣れていたけれど、ブランの目がただれていることに驚き、その拍子に目が覚めた。
目は悪くないはずだけどな。
ブランは20歳。歯周病のため、1年ほど前から病院通いをしていた。顎に穴が開きしょっちゅう血だらけになったり、歯に挟まったものを取り出したいというように口元を何度もぬぐう仕草が目立った。それでも、時々カリカリを食べるなど、「この症状なのに?」と獣医さんがびっくりするほどだった。それがここ最近食が細くなり、ゼリー状のもペースト状のもちょこっとしか口にせず、トイレの回数も減ったということで、憂慮していた。
夢に意味を見出そうとするのは現実的ではないが、呼んだら起きてきたということは、まだまだ元気という暗示かも知れない、と思った。思おうとしていた。
その日は、父が月末に受ける手術の内容をご家族にも説明したいという主治医の意向で、夕方から病院へ出向くことになっていた。私は1日有休を取っていたので、病院へ行く前に、スープ状になっているキャットフードを買っていこうと考えていたときだった。
携帯が鳴り、表示を見たら母からだった。ブランの具合が悪いので病院へ行こうと思っているけれど、かえって身体に負担が掛かるのではないか、家で様子を見た方が良いだろうか?という相談だった。ブランは数日前、病院で診てもらったばかりである。ブランに限ったことではなくうちのニャンズが皆そうであったように、大抵の猫は病院(洗濯ネットやキャリケースに押し込まれることも含め)が苦手だと思う。病院内で、同じように連れて来られた猫や犬・他の動物たちの不安そうな表情や鳴き声、一度病室を経験した子なら、また受けるかも知れない処置に対する恐怖心など、小さな身体にとっては大きなストレスになるだろう。老齢の子、更には体調に不安を抱えていたら、あまり負担を掛けたくないという親心が働くのも理解できる。ブランが通院している病院はWebでも診察予約が可能で、Web予約ができない母は窓口で診察を取り付けており、順番が来るまでブランは長時間待合室で過ごさなくてはならなかった。今日は私が順番を取るから、と受付開始と同時にWeb予約のボタンを押し(それでも4番目で、待ち時間65分だった)、母へは、診察時間の直前にブランを連れて行けば身体への負担も少しは軽減されるだろうから、今日診てもらった方がいい、と伝えた。不安にさせるだけだと思ったので、夢の話はしなかった。私自身、不安になるようなことを考えたくなかった。
キャットフードを携え、父が通院している病院へ向かった。ブランは大丈夫だったかな、父は頭もしっかりしているのだから、聞いた話をあとで説明してくれればそれでいいんだけどな、と父よりもブランの症状が気掛かりだった。母はすでに到着していて、Web予約のお陰で待合室で長時間過ごさずに済んだ、ブランは注射を打ってもらって落ち着いている、と笑顔はなかったがひとまずほっとしたというような表情で話してくれた。
予約時間が過ぎても、なかなか父の順番にならない。両親も兄も私も、何を話すでもなくじっと座ってやり過ごす。注射で落ち着いているとはいえ、ブランのことが気になって仕方がない。予約時間を1時間半過ぎたところで、私が説明を聞いておくから、と母には帰ってもらうことにした。「午前中から待っているのに」と仰っている患者さんもいて、この調子だと父の順番がいつになるか分からないと思ったからだ。父が呼ばれたのは予約時間から2時間45分を過ぎた頃、母が帰宅できているであろう時間だった。
執刀医との話は15分ほどで終わった。モニターに患部画像を映すのに5分、画像を比較させながら、今日撮影したCT画像だと前回より患部が小さくなっているので、今回は手術を見送ることにしましょうと言われるまでに5分、質問と回答に5分。術後の生活に支障が出るかもしれないから、1か月様子を見て、手術した方が良さそうだったら改めて手続きしてください、というのが執刀医の見解だった。でも、手術しましょうと言われたときは、他臓器への影響がない今のうちに、ということだったはず。
「手術をするほうが、しないよりリスクが高いということですか」「他への影響が出ないうちに手術をした方が良いと言われて手術することになったはずですが、見送ったら他への影響が出るという可能性はないのでしょうか」「1か月で患部が大きくなったりしませんか」と聞いたところ、「大きくはならないでしょう」と言われただけだった。
28日に入院・31日に手術の予定が、今日のCT画像で判断して直前で見送り、更に「どうしますか?」ではなく「そうしましょう」。入院予約は「病院のほうで取り消しておきます」と言われた。早急な進め方に、誰か別の人を横入れで手術することにしたんじゃないかと疑いたくなった。失礼なことを想像しているかも知れないが、こっちだって手術の内容を家族に説明したいと言われたから今まで待っていたんだ。だからこそ、見送る理由をはっきり聞いておかなければ、納得できない。それなのに、前立腺も患っている父が
「それじゃ、そういうことで」
と、いそいそとトイレに立とうとしたものだから、はい、以上、お疲れ様でした、と手術しない方向で話が終わってしまった。
こんなことのために、長時間待たされたのか?
早い時間に終わったら、実家に戻ってブランの様子を見てから自宅に帰ろうと思っていた。明日は仕事だし、夢でも立ち上がる姿を見たから、大丈夫だろう。戻るか戻らないかを天秤にかけ、夢の内容を自分の都合よく解釈したのだ。私は実家には戻らず、帰宅してしまった。
帰宅後、母に電話でブランの様子を確認したところ、トイレに行ったし、私が渡したスープ状のキャットフードも幾分か口に入れたとのことだった。数日前には電話口から聞こえてきたブランの鳴き声が、今日は疲れていたようで、聞くことができなかった。
翌、24日火曜日19:19、母からのショートメール。18:50にブランが……と書かれていた。
夢の内容、母から診察相談の電話、Web予約、長くは待たされなかった、注射で落ち着いたブラン、父の病院での待ち時間、手術は見送りましょう、聞けなかった理由、聞けなかった声、帰らなかった自分。
翌々日、25日水曜日。会社帰りに実家へ戻る。動物霊園の予約が取れず、26日になったということだったので、旅立つ前のブランに会いに行った。26日になってくれて良かった。
ブランは大あくびをし、ぐぐ~っと1回手足を前方に突き出してから、旅立ちの準備に入ったそうだ。ピンと立った耳、「の」の字が「へ」くらいになっていたけれど、くるりと丸まった手足と尻尾。ピンクの肉球は押してみると柔らかかった。意識だけ別の世界へ飛ばしているみたいだ。すでに住人となっている我が家の先輩ニャンズ、ハナ・メグ・サスケの様子を探ってから旅立つつもりなのかも知れない。
26日木曜日。霊園の方が、この歳でこんなにしっかり残るホネはなかなかない、きっと大切にされて幸せだったことでしょう、と仰っていたとのこと。家族としては、至らなかったことばかりに思いを巡らせてしまうけれど、そうでしょうか、幸せだったでしょうか、そうだったらいいのですが。
ブランは父の悪いところを一緒に持って旅立って行ったのかしら、と母は言ったけれど、そんなことがあってたまるか。自分のことは自分できっちり落とし前つけるべきなのだ。父の症状がブランで肩代わりされることはないし、手術云々も父本人が理解し納得して判断すべきことだ。執刀医の説明を聞かずに帰ってきたことも、ブランにしてあげられなかったことも、それはすべて私自身の問題で、行動できていたとしても父やブランの状況がいい方向に転換される保証はない。
ブランが幸せだったかどうかは分からないけれど、家族になってからの20年と6か月を思い返すと、鼻の奥や目頭がじわじわ、頬や横隔膜がピクピク、心臓に流れ込む血流の速さや温度まで感じられる気がするような、泣いたり笑ったり怒ったり温かい気持ちになったり、どこにでもある日常だけれど特定の相手だから特別な思い出として残っている、そんな日々だった。