ある日、音のマナー

フランスのアパルトマンで騒音に悩まされるのは日常茶飯事だと言われている。だから、私がほとんど被害に遭わなかったのは稀なケースと言えるだろう。
ホームステイ先の一軒家でも集合住宅でも、また、パリや南仏での独り暮らしでも、幸いなことに聴覚が感じ取る苦痛はなかった。

もちろん、他者の物音でも自分のものでも、音のマナーについて気に留める機会がなかったわけではない。
初めてのホームステイでは、最終日に語学学校の生徒たちでパーティーをすることになり、帰宅が深夜近くになった。フランスでは夜中にトイレを流しただけでもクレームを言われたりすると聞いたことがあったため、なるべく音を立てないように門やドアの鍵を開けた(フランスの古い建物は鍵が大きく、何回も回したり複数箇所開けたりするので、想像以上に音が大きい)。ドアを少しずつ開き、靴音を立てないように、そろ~っと家の中へ入ろうとしたところ、ドアの隙間から家猫が外に出るという事態が起きた(このサイトの『猫話~ビッグママ宅のバブー~』にも書いています)。深夜に大声で探し回ったりしたら警察を呼ばれるかも知れず、しばらく小声で名前を呼んだり周囲を探してみたものの、結局猫の帰巣本能に任せる形で、私は探すのを諦めた。翌朝マダムが気付いて家の中に入れるまで、猫を外で過ごさせるハメになってしまい、初ホームステイは最後まで苦い思い出を残したのである。
また、パリでの語学留学時は、部屋が共有だったこともあり、物音には慎重になった。そもそも私はルームシェアを希望しておらず、契約時に日本で受け取っていたバウチャーにも、住まいとして一人部屋の物件が記載されていた。ところがパリ到着後、その物件とは異なる住居をあてがわれることになり、更にはラオス人男性と共有と聞いて、私は憤慨した。一人部屋を希望して契約ではそうなっていたにも関わらず、契約とは異なるルームシェア、しかも外国人男性とだなんて、話が違う!と、校長(日本人男性)に文句を言った。寝室には鍵が掛かるし、交通の便もこっちの方がいいよ~と、謝りもせずヘラヘラ笑いながら言ってのけた校長のことを思い出すと、今でもモヤモヤする。だがしかし、あの場でモメても住まいの選択肢はなかったようなので、私は新たに提示された集合住宅で暮らすことになった。学校の手配は本当に適当で、3か月間はラオス人男性との共有部屋、そして最後の1か月間だけ、私は別部屋に移らなくてはならなくなった。エレベーターのある建物だったとはいえ上階への引っ越しとなることや、こんな短期間に2回も原状回復しなきゃならないのか、と閉口した。唯一良かった点は、移る部屋が日本人女性との共有だったことだ。
料理人を目指しているMさんは小柄で細身な人で、目鼻立ちがクッキリとした美人だった。フランス人の彼氏がいて、いつもお洒落で堂々としている彼女に、人見知りの私は打ち解けられるか不安だった。でも、一緒に生活するうち、裏表のない気さくな性格で、頼りになるお姉さんといった印象に変わった。手入れをサボっていた私の包丁を、「ついでだから一緒に研いでおいたよ」とピッカピカのキレッキレにしてくれたときには、さすが料理人!と感服したものだ(見過ごせないくらい酷かったのかも……)。Mさんは交友関係も活発で、あるとき、「友達を招くからちょっとうるさくなるかも」と事前に断りを入れてきたことがあった。私は、そうなんですね、分かりました、と特に気に留めなかった。その晩、確かに楽しそうな笑い声が深夜まで続いていたけれど、お断りを入れていただかなくても大丈夫なレベルだったのではないかと思う。あるいは、私は特技を‟どこでもすぐ寝られること”と言えるくらい寝付きが良く(眠りが浅いので何度か起きてしまうものの、またすぐ眠れる)、笑い声くらいだったら就寝にあまり影響がないけれど、人によっては気になるのかも知れない。気になる人がいたとしても、Mさんのように最初に断っておけば、クレームも最小限で済むのではないだろうか。更にMさんは数日後、突然私の部屋をノックしてきた。どうしたんだろう、とドアを開けるなり、彼女は「はい、お土産!」と顔が隠れるくらいに咲き誇ったミモザの枝を差し出し、私を驚かせた。先日招いたお友達と小旅行に出ていたようで、この間はうるさくしてごめんね、とお詫びを兼ねてのことらしかった。全く気にしていなかったから、心遣いのサプライズにはむしろ感激してしまった。
インターン期間中にホームステイをしたRDP家では、夜中に帰宅した際、ドアの鍵が開かないけれど呼び鈴ならぬ呼び鐘を鳴らすのをためらった結果、窓から侵入して温室で一夜を過ごすことになった(エッセイ本『ある日、フランスでクワドヌフ?』にも書いています)。また、RDP家でお世話になる前にステイしていたヴァイキング家族の家では、噂に聞いていた‟トイレ騒音”を身をもって体験した。こちらのお宅の部屋はヘアオイルが凍るほど寒くて、普段は夜中にトイレに立つことのない私が、一度だけどうしても行きたくなったことがある。物音を立てないよう、また、電気を点けると文句を言われるかも知れないので、そろそろと手探りで階段を下りた。最終段と思われるところで足を踏み出そうとしたところ、柔らかいものにつまづき、私は転びそうになった。そこにはヴァイキング家族の大型犬が、階段と平行に寝そべっていたのだ。電気を点けずそろそろ歩きになっていたことが幸いし、私はワンちゃんのお腹を踏まずに済んだ。だが、つまづいて足を踏ん張ったため、バタッ、ギュイイ~という床音が多少響いてしまった。誰かが起きたような気配はなかったので、ひとまず安心。階段横にあるトイレの電気を点け、急いで中へ入りドアを閉めた。瞬間、私は目に映った光景にギョッとして反射的に手が動き、壁にぶつけてゴツ、という音を立ててしまった。便器が一面赤い。まっかっか。女性なら誰でもすぐに察する事態だが、夜中に慣れない他人の家で電気も点けずひっそりと行動し、やっと灯りの元で目にした光景は、もはやサスペンス状態。見てはいけない現場を目の当たりにした気分で、私はその有様をしばし呆然と眺めていた。この家の人がこれをそのままにしているってことは、やっぱり夜は流しちゃダメってこと?それでも、もう後戻りはできない。私は当初の目的を果たし、証拠隠滅を謀る犯人さながら、慎重にレバーを引いた。
翌朝マダムから、トイレの流水音を注意され、ああ、噂は本当だったのだなぁとトイレ騒音が事実であることを理解し、また、生理現象なのだからみんなお互い様って思えないのかしら?と、意外なところで神経質なフランス人の感覚に首を傾げたのである。

コロナ規制が解除されて以降、アルコールを提供するお店の深夜営業が再開され、遅くまで過ごす機会が増えたのは間違いない。実際、夜中に通りから笑い声や歌声が聞こえてきたり、マンションの住民も深夜に酔っているとみられる動作(階段を踏み外したり、鍵を探したりドアに鍵が刺さらなくてイライラしているような声を出す)を伴って帰宅したりしている。昨日も夜の3時過ぎ、複数名が声を潜めるでもなく喋りながら、ガラガラとスーツケースを引きずり、門扉をガチャンと勢いよく閉める音が聞こえた。連休だし、数年間控えてきた分、解放的になるのも分かる。でも、もうちょっと静かに……グゥ~(またすぐ寝付いた)。

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