ある日、‟クラス”だね

インターン高校が夏休みに入り、帰国を意識するようになった頃、私はニコの友人たち数名とミュージックバーへ出掛けた。こちらのバーでは毎日さまざまなジャンルの音楽イベントを開催していて、巷で音楽祭などが催される時期ということもあり、更に力の入ったイベントが企画されていた。
私たちが訪れたのは、‟la soiree musicale du Moyen-Orient(中東音楽の夕べ)”というイベントだった。ニコの女友達であるエロディの彼氏がアラブ系で、エロディが彼氏を含めみんなで行こうと誘ってきたらしく、ニコ・エロディと彼氏・マチルダ・私の5人で行くことになった。私はこちらのバーに2回ほど訪れたことがあり(このサイトの『ある日、それぞれの拘り』で、マチルダやバーのことについて少し取り上げています)、ドリンクの注文がちょっと億劫だな、とイベントとは関係のない心配をしていた。

予想通り、階段には大勢が並んでいた。こちらのバーは2階にあり、半階ごとの折り返し階段の踊り場に人1人が通れるくらいの幅を残してテーブルが置かれている。そこが受付になっていて、年齢確認とイベントの入場料を支払ったら、係員が上へ通してくれるようになっていた。以前にも感じていたことだが、この受付に時間が掛かる。お金のやり取りがスムーズではないのだ。店内はカードOKだが、受付はキャッシュオンリーで、係員がお釣りの計算に手間取っている。フランス人は暗算(引き算)が苦手だと言われていることについて、心から納得してしまう瞬間だ。例えば、8.5ユーロの入場料を20ユーロで支払おうとする場合、彼らは「8.5にいくら足したら20になるか」と考える。「まず0.5足したら9になるから50サンチーム返金」「1足して10になるから1ユーロ返金」「あと10だから10ユーロ返金」といった具合でお釣りを返してくる。ちなみに、高額紙幣での支払いは嫌がられる傾向が強く、20ユーロでさえ「もっと細かいものはないの?」と聞かれたりする。また、日本人の感覚で計算しやすい方がいいよね(手持ちの小銭も少ない方がいいし)、と20.5ユーロ出したりしようものなら、大抵の場合彼らはしばらくフリーズするか、「これはいらない」と50サンチーム返されたりする。この受付に限らず、マルシェとか街中の小売店など、レジスターがないなら電卓を使えば?と思うような場面でも、みんな暗算。もし、落語の『時そば』を実行したら、フランス人はごまかしに気付くのではないだろうか。彼らは支払う側も受け取る側も「1・2・3……」と小銭を計算しているから、「いま何時でい」なんて声を掛けたら「ちょっと黙って」と遮られるか、「いくらか分からなくなった!」と最初から計算し直しそうだ(笑)。
私は受付渋滞に閉口しながら、体格の良いフランス人に押されて転げ落ちたりしないように、細い幅の階段上で数十分間、重心を低く保ちながら足を踏ん張っていた。

やっと店内に入ることができ、まずは席を確保しようとしたけれど、空席がないどころか立っている人の方が多い。それに、いつもより席数が少ない。今回は中東音楽の夕べというだけあって、店内の半分の席が片付けられ、そこにキリムが敷かれていた。キリムの上には男性ミュージシャンが直座りして、それぞれが携えた楽器を演奏していた。名前がまったく分からなかったので後日調べてみたところ、おそらく、ラバーブ(細長い弦楽器)、ウード(丸い弦楽器)、カーヌーン(お琴のように指で弦をはじく楽器)、ダラブッカ(片側に皮が張られ、胴の真ん中が少しくびれた打楽器)などだったようだ。演奏されていた曲も、題名を知らないばかりかあまり聞いたことがない曲調で、乾いた土地に吹く風とか、陽炎とか、砂紋(風紋?)を連想した。
私はキリムを囲むように立つ客層に紛れ、一緒にバーへ来たメンバーから離れて1人で音楽に聴き入っていた。
「これはクラスだね」
突然右の首筋辺りから誰かに囁かれ、私はびっくりして少し距離を取るように振り返った。黒髪で身長165cmくらいの若い白人男性が立っていて、
「クラスだと思わない?」
と今度ははっきりとした口調で私に話し掛け、ミュージシャンを指差した。その男性は差した手の掌で、角グラスの上部を包むように持っていた。
(誰?そして、クラスって何?)
‟クラス”と聞いて、私は階級・授業・学校のクラス(組)をイメージした。
(多分、どれも違うよなぁ……)
私が首をかしげていると、その男性はもどかしそうに、
「クラスだよ、クラス。意味、分かるよね?」
と私がイメージできていない言葉を繰り返した。
「クラス、ですか」
「そう、これはクラスだよ」
「(まだイメージできず)……」
彼は私の反応から通じていないことを察したらしく、グラスを持つ手を軽く上げ、
「それじゃ、楽しんで」
とその場を離れて行った。
(何が言いたかったんだろう?クラスって?)
気を取り直してドリンクを注文することにした私はバーカウンターへ。いったん聴くのをやめた人や飲みたいだけの人でごった返しているなか、カウンター内の店員さんに背伸びして
「マルティニ・ルージュ」
と頼んだものの、2回聞き返された。ホント、恥ずかしいし凹む。いっときマイブームだったのと、そのバーにある他のカクテルをあまり知らなかったので、前に訪れたときからずっと同じものばかり頼んでいるにも関わらず、注文を聞き返される。声が小さいですか?それとも、いつまで経っても発音が悪いんでしょうか??
「ああ、マルティニ・ルージュね」
やっと通じてホッとした瞬間、ふとひらめいた。
(クラスって、クラシックってこと?)
あの人は、classique、つまり古典的とか正統派ってことを言いたかったのかな?
(そうか、そうかも!)
ドリンクを受け取り、口に含むと、喉から胸の中央部分にかけて開いたような感覚になった。
(うん、ちょっとスッキリした!)
ドリンクのせいか、はたまたイメージできたような気がしたからか、私は晴れやかな気持ちでまたキリムを囲む客層に紛れに行った。

その後、辞書を引いてみたところ、classeだけだと私が最初に想像したような意味で、avoir de la classeで品がある、という意味になることも載っていた。このことから考えると、あの男性は品があるとか古典的だということを言っていたのだろう。そういえば、落語でも察しが悪い人とか別の意味で言葉を捉えたための騒動とかに関する題材があったような?落語もclassiqueということで、今回は「こいつぁ、クラスだねぇ」。おあとがよろしいようで……。

Follow me!