Une priere~震災と戦争への祈り~
東日本大震災から11年。震災当日、私は営業で客先に出向いていた。16階の会議室に一人でいたときで、確かドン!と縦の振動が起きたのち、激しい横揺れが始まった。その会議室は豪華客船の救命ボートのように建物から突き出して設置されていて、外を見ると、窓と接していないコンクリートの梁がゴムかと思うくらいくねくねと揺れていた。隣のビルの窓ガラスも、硬さがなくなってしまったかのようにしなって震えていた。私は過去の避難訓練で習った通りテーブルの下にもぐったのだが、長テーブルや椅子はそれぞれキャスターが付いていたため、シーソーのように揺れに合わせて左右に動いた。キャスターをロックしなければこのテーブルごと窓から放り出されるかも知れないと思い、私は床を這いながら四隅の脚をロックしていった。
揺れが少し収まってから会議室を出て、客先の管理職に一声掛けようと思ったのだが、当然のことながら、混乱している職場の人たちは外部の一営業に構っている余裕などなさそうだった。こんな状況だからあとで連絡しようと思い、16階から階段を使って下へ向かった。揺れとも相まって、10階くらいからめまいがしてきたが、ふらつきながらも1階まで辿り着いたときには地面に立てたことが嬉しかった。さっき会議室で見た隣のビルの窓ガラスの一部が、揺れに耐えかねたらしく、割れて地上に散乱していた。その日の私は、会社から徒歩圏内の客先に来ていたので、ガラス片や新たな落下物などに気を張りながら、帰社を急いだ。途中で揺れがまた強くなったときには、怖くて地面にしゃがみ込んでしまったりしたが、無事会社まで帰り着いた。
そのあと自宅まで数時間かけて歩いて帰ることになる2011年3月11日。私はその翌日から独り暮らしをすることになっていた。次の日、鍵は受け取ったものの、運送トラックが動かないので冷蔵庫や洗濯機など大型家電が搬入されるまで数日待たなければならなかった。水やトイレットペーパーが早々にスーパーからなくなり、日用品が揃うまで時間が掛かりそうだったため、しばらくは借家と実家を往復しながら生活した。
その後、会社がボランティアを募り、被災地復興の一助として現地へ向かった。東京での揺れでさえ命の危険を感じたのだから、被災地の方々はどんなに不安で心細いだろうと心がざわめいた。現地の皆さんはそんな様子を見せず、気丈だった。私は集まった支援物資の仕分け(私は小学校などへ配られる本の担当だった)を室内で行っただけなので、皆さんから現時点での状況や困っていることを直接お伺いすることはできなかった。あれから11年経った今も、暮らしていた場所に戻ることができない人たちがいる。被災者の方々の心の安寧を願うとともに、支援するとはどういうことか、改めて考える。
『風の谷のナウシカ』の公開が1984年3月11日だったと耳にして、戦争についても考えを巡らせる。フランスの語学学校で、別のクラスにウクライナ出身の女性がいた。身長170cmくらいでスタイルが良くブロンドの美人で、性格は控え目。いつも口角がうっすらと上がっていた。私は話したことがなかったが、その場に居るだけで目を引く人だった。確か、小さなお子さんがいて、彼女が語学留学している間、旦那さんとお子さんはウクライナにいると誰かが言っていたのを聞いたように思う。あの女性は今、どうしているのだろう?家族ともどもポーランドなどに避難できているのだろうか?かつて旅行でポーランドに行ったことがあるが、穏やかな人が多かった印象がある。ヨハネ・パウロ二世の出身国として、信心深い人たちが多いとも聞いた。ホテルやお店などで、挨拶くらいはポーランド語で、と話してみたのだが(ちなみに、「こんにちは」は「ジンドブリ」、「ありがとう」は「ジンクワイエ」と言っていたが、ちょっと発音が違うのかも)、聞き取りにくかったとしても眉根を寄せたりすることなく、気長に耳を傾けてくれていた。歴史的に国土が何度も変遷を繰り返したためか、国境という概念にあまり囚われていないのではいかと想像した。陸続きであるといえばそれまでだが、それでも、対岸の火事と考える人が少ないように思う。実際、ウクライナとの国境付近では、多くのボランティアが連日難民の受け入れに力を注いでいるというニュースを見た。ポーランド国民だけでなく、留学中の日本人女性は、居住提供の登録なども行ったという。人手も、物資も、住まいも、安全も、何もかも不安定ななか、自分たちにできることを実践している人たち。東京都港区にあるウクライナ大使館には、国旗色であるブルーやイエローの花束が届けられたり、メッセージを寄せたりする人が後を絶たないという。テレビでは、ロシアでもこの戦争に反対して抗議活動を行っている人たちの様子を映し出していた。
それぞれの人たちの思いが、祈りが、安心して暮らせる生活に繋がって欲しいと願う。