音のない拍手
映像では、立ち上がった人々が両手を左右にヒラヒラさせていた。
ウィル・スミスの行動が物議を醸した今年のアカデミー賞。『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞を受賞したにも関わらず、彼に関するニュースを見聞きする方が多い。作品賞など3部門に輝いた『コーダ あいのうた』も、あまり話題に上っていないように思われる。私が見た映像は、助演男優賞を受賞したトロイ・コッツァーへの賞賛の場面だった。
『コーダ あいのうた』は、フランス映画『la famille Belier(邦題:エール!)』をハリウッドがリメイクしたもの。この映画がフランス版と大きく異なる点といえば、ろう者の家族を演じたキャストが、実生活でもろう者の方々であるということだ。
ろう者同士の手話はメチャクチャ速い。私のようにちょこっとだけかじった程度の人間だと、彼らの手さばきはルービックキューブ6面を数秒で揃える人のごとし。指の動きがどんな会話を構成したのか分からず終いになってしまう。理解が追い付かないのは速さのせいだけではない。おそらく、発声での会話と同じく、一部の語彙を省いたりすることもあるからではないかと思う。あれだけ手指を動かすのだから、簡略・省略したくなっても不思議はない。実際、自分が体験したこととして、ニコが表す手話の単語の区切りが分からなくなったことがあった(手話の「リエゾン」「エリジオン」「アンシェヌマン」といったところでしょうか?)。
だから、映画の中で彼らがどのように会話しているのか興味を持った。もちろん映画なので、脚本や監修・演技指導の時点で手話も作り込まれたものになっているのだろう。だが、”家族の中で唯一の聴者”という主人公を取り巻く環境を考慮すると、ろう者を演じる聴者俳優が時間を掛けて修練を積んだフランス版の手話と、普段からルービックキューブを数秒で組み立てているハリウッド版のそれとでは、俳優たちから引き出される演技も違ったものになるのではないだろうか?それに、手話は手指だけで表現されるものではない。顔つきや身体の動きも加わるため、手指の速度と他の動作・感情を一体化させるのが難しい。私が手話に接していたときは、どちらかにもう一方を合わせようとしていた。手指が先か、動作・感情が先か。アテレコかプレスコか?みたいな。ろう者の方々はそれがぴったりと合っていて(合わせているという意識もないと思われる)、目まぐるしく変わる。私が加わった(というか、横で見ているだけになった)ろう者の人たちの手話は、あまりに機敏すぎて早送り映像か?と呆気に取られたうえ、彼らの豊かな表現力にも驚かされたのだった。
トロイ・コッツァーは、彼の身体全体の表現を通して、映画を観る人に説得力を与えたのではないかと思う。彼の受賞映像越しに、私も両手をヒラヒラさせた。