猫話~我が家のハナ~

うちには4匹の猫がいた。現在、別の世界の住人となっている3匹のうち、今回は一番年長だったハナについて話をしようと思う。

ハナは、正式にはハナ太郎という。私の伯母(母の姉)宅で生まれた4匹のうちの1匹で、伯母が名付け親だ。由来は、鼻の下にほくろのような黒い点毛があったから、と聞かされたため、私は「ひょっとして、漢字は鼻太郎なのか?!」と少し引いていた。母は
「ハチワレの顔がパッと目を引いて華やかだから華太郎よ」
と解釈していたようなので、私は敢えてどちらともせず、ハナ太郎としてきた。

母は伯母の家からハナをボストンバッグに入れて連れ帰って来た。まだ子どもだと聞いていた私は、掌サイズの子猫を想像していた。だが、船底に閉じ込められた奴隷が床板の柵から手を伸ばし風を感じようとするかのように、ジッパーの隙間から外の様子を探るように突き出された白黒の手は、成猫と変わらない大きさに成長していた。
「出たがって大変だったのよ」
そう言って母がバッグを下ろすや否や、物怖じせず中から飛び出し毛づくろいを始めたハナを見て、そりゃ、子猫には見えないくらい大きな子が、こんなに狭くて閉ざされた鞄の中に入れられたら息苦しくて大変だったよねぇ、と私も身体を伸ばしたくなった。
ハナは好奇心が旺盛で、我が家にもすぐに馴染んだ。普通、猫は慣れない場所に連れてこられたら、狭いところに隠れてしまったり、おっかなびっくり及び腰になるものだと思っていた。だがハナは
「ここ、どこ?面白そう!」
とでもいうようにキョトキョト左右を見渡しては足早に部屋を行き来したり、突然止まって天を仰ぎ、髭を扇状に広げ、湿った鼻をヒクヒクさせながら臭いを嗅いだりしていた。私たちに威嚇することもなく、コテッと倒れお腹を見せてポーズを取ったりするなど、誰の前でも愛嬌を振りまいた。
当時、我が家は隣家からのもらい火で全焼し、仮住まいで生活していた。多くを失った私たちの気持ちを少しでも慰められたら、ということで、伯母曰く「4匹の中で一番社交的な子」であるハナを譲ってくれたのだ。とはいえ、うちでは今までウサギと犬を家族に迎えたことはあったけれど、猫は初めてだった。猫ってどうなの?勝手気ままなんじゃ……。伯母の気持ちは大変有難かったので言葉にはできなかったが、そんな思いを抱えたままハナを迎えた私たち家族は、一瞬でこのハチワレ王子に夢中になった。

焼け出されて仮住まいを始めたばかりの我が家には、キャリーケースはもちろん、ケージやトイレの用意がなかった。トイレは段ボール箱に猫砂を敷き詰めてみたが、ハナはこの見慣れないご不浄場が落ち着かなかったようだ。
それなら散歩がてら外に出てみようか、と場当たり的な考えに至った私は、ハナの身体に紐をくくり、屋外に連れ出した。その途端、ハナは1mくらい跳ね上がったかと思うと、マジシャンのように紐から身体を外し、一目散に我が家から脱走した。
呆然としたのも束の間、私と母は慌てふためいてハナを追いかけたが、すぐに茂みにでも隠れたようで、既に視界に捉えることができなくなっていた。
本当に、軽率だった。
このあと私たちはハナの捜索に考えられる限りの自主的手段を講じ、3日間を費やすことになる。
ハナにとっては見知らぬ土地だから、そんなに遠くには行けないだろうと、住まい周辺の500m範囲内を集中的に探すことにした。ハナが戻って来ることも想定して、家の周囲にキャットフードやら煮干しやらを手当たり次第に配置し(ほとんどが野良猫の胃に収まったようだった)、家族の誰かが家にいる間は、脱走した縁側の引き扉を開放しておいた。就寝中に戻って来るかもしれないから、と夜間も開けていたので、防犯上の恐怖心がなかったわけではないが、高価なものは何もない仮住まいの平屋に泥棒が寄って来ることもなかろうと、腹をくくった。
捜索中の私は軍手をはめ、辺りが暗くなってからは洞窟にでも潜るかのようなサーチライトを頭に付け、プラスチックケースに入れたドライフードをカラカラと振って音を立て、ハナの名前を呼びながら近所を徘徊した。なりふり構っている場合ではない。ハナのことが心配だったし、伯母からは毎日
「ハナちゃんは今、どうしているかしら?ちょっと声を聞かせて」
と電話が来るので、母はその都度
「今寝ていて、起こすのは可愛そうだわ」
と苦しい言い逃れをしていたから、捜索が長引くとごまかし切れない状況に陥るためだった。私や母がハナの名前を呼んでいると、ときどき呼び掛けに答えるようにか細い猫の鳴き声が聞こえた。どこか狭い場所にはまって出られなくなっているのでは?怪我はしていないだろうか?私たちは根気強く猫が潜んでいそうな場所で名前を呼び続けた。
3日目の夕方、とあるマンション近くの茂みで呼び掛けてみたところ、今までより近距離から鳴き声が聞こえた。茂みの手前にしゃがんでサーチライトを点けてみたところ、ハナらしき猫がうずくまっていることが確認できた。私と母はケースのドライフードを大きな音で鳴らし、必死で名前を呼び続けた。すると、ボストンバックから探るように突き出されたあの白黒の手が見え、一歩ずつこちらに近寄って来た。すぐに捕まえたい気持ちを抑え、やっとフードに口をつけたところで、母ががっしりと前足を掴んだ。ハナは暴れる様子もなく大人しく捕獲され、アウアウ言いながらその場でフードにがっついた。素人の我々がそんな短期間でケージも使わずに捕獲できたのだから、稀に見る幸運というか、ハナとはご縁があったのだとつくづく感じている。

この脱走事件をきっかけに、私たちはハナを家猫として育てることにしたが、万が一外で迷惑を掛けることがないよう、去勢手術を施すことにした。成長すると身体の負担も大きくなると聞いたので、早いうちに、とハナを家に招いてから数か月後、仮住まいから建て直した自宅へ移ってすぐのことだった。その当時、母は火事後の心労と諸手続きなどで体調を崩し、入院していたため、ハナの手術の送迎は兄と私が行うことになった。
当日、術前のハナは元気いっぱいで、壁を蹴り歩いたり(猫あるあるです)、高さ180cmほどの冷蔵庫に飛び乗ったりしていたが、術後のハナは50cmほどの椅子にすら上れず、ぐったりと床にへばっていた。私は、手術の麻酔が抜け切らず、ハナの身体に何らかの影響が出ているのではないかとオロオロした。まだ1歳になっていなかったが、身体がこれだけ成長していたら、負担が相当大きかったのではないか?と、手術を受けさせたこと自体を悔やみ始めていた。兄と相談し、その日1日は様子を見て、もし翌日も状態が変わらないようだったら、再度病院へ連れて行こうということになった。
次の日、まだ本調子ではない様子だったものの、ハナの状態は回復傾向にあったため、私たちは一安心。この件を教訓として、あとに続く3匹の去勢や避妊手術は、適齢期になってすぐ施すことにしたのである。

我が家のニャンズ4匹のうち、ハナだけが人見知りをしない子で、あまり外を怖がらなかった。父が単身赴任になったときは、母と私と共に新幹線で父の住居へ赴いたこともある。その頃にはキャリーケースに収まっての移動となっていたが、ハナはほとんど鳴き声を上げなかったため、周囲の人は我々が猫を連れていると思っていなかったようだった。
また、兄の車で一緒に連れ出したときは、キャリーケースから出て窓から外を眺めていた。最初は興味津々という体でいつもと変わらない様子だったのだが、そのうち口でヘッヘッと荒い呼吸をするようになったため、具合が悪くなったのではないかと急いで家に引き返した。脱水症状だったのか、家に戻るとすぐ自分の水場にしゃがみ込み、いつもより長い時間水を飲んでいた。

人見知りをせず、外を怖がる様子のないハナは、外部の人間にも興味を示していた。仮住まいのとき、隣家は大きなお屋敷で、駐車場の横にバスケットボールのゴールが設置されていた。ときどき子どもの楽しそうな笑い声が聞こえてきて、そんなときのハナは耳をピンと前側に向けていた。
あるとき私は、窓際に置いたCDプレーヤーの上扉がちょくちょく開いていることに気付いた。圧を掛けると開く仕組みの扉で、経年劣化ではなさそうだったので、自然に開いたとは考えにくかった。私が閉め忘れたのかな、それにしては結構な頻度だなぁ、ぼんやりしてちゃダメよね、などと注意を払っていたつもりだったが、その後も状況は変わらなかった。
そんなある日、私が部屋で本を読んでいると、ハナが慣れた動作でプレーヤーの上に乗り、窓枠に手を掛けたかと思うと、二本足で立ち上がった。窓は上部1/4がクリアガラスで、下部3/4が磨りガラスになっているため、立ち上がらないと外の様子が見えない。
(なるほど、ハナの体重で扉が開いていたのね!)
米袋ほどの重量があるハナが乗っかったら、そのうち扉だけでなくプレーヤーまで壊れてしまうかも知れない。ハナには悪いけど、降りてもらおう。
そんなことを考えていたら、窓の外から子どもたちの声が聞こえてきた。
「あっ、猫だ!」
「また見てる~」
「おっきな猫だねぇ」
「猫ちゃあ~ん!」
また見てる、と言われるあたり、ハナはお隣の子どもたちの間で知られた存在になっているようだ。
外からの呼び掛けに、ハナはちょっと恥ずかしそうに首をすくめ、ゆっくりと腰を落とし、自分の姿をクリアガラスからフェードアウトさせた。
ハナと子どもたちのやり取りもあり、私はそのまま窓際にプレーヤーを置いておいた。その後も扉が開いていたことから、恐らくハナは時々子どもたちの様子を窺い、子どもたちも気付いたときは声を掛けたりしてくれたことだろう。微笑ましいエピソードではあるが、ほどなくしてCDプレーヤーは扉が閉まらなくなり、残念ながら音楽を聴くことはできなくなってしまった。
仮住まいのときは、遊び盛りの猫の興味を引くようなおもちゃなども用意できていなかったから、ハナは外の子どもたちと遊びたかったのかも知れない。それでも、兄が買ってきたスーパーボールを夢中で追いかけるなど、子猫らしい様子を見せてくれた。床に落としてドゥン、ドゥン、と跳ねる速度に合わせ首を上下する様子は笑いをそそられたし、サッカーの真似事をしたときなど、ハナは名ゴールキーパーになったものだった。
ハナが遊ぶというより、我々が遊んでもらっているようなところもあり、面倒見の良いハナはその後ニャンズのリーダー的存在になった。
またどこかでハナの話をすることもあると思うので、今回はこの辺で。

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