猫話~我が家のサスケ~

ブランが我が家から別の世界に住まいを移して1か月、母がお骨を入れたキーホルダーを届けてくれた。他のニャンズのときはホネを持ち帰っていない(サービス自体がなかったのかも)。今回は焼き場の女性が懇切丁寧な方だったようで、
「背骨も尻尾の骨も立派で、綺麗に残りました」
と標本のようにして見せてくれたらしい。その際、アクセサリーなどにして一部を持ち帰ることもできると言われたそうだ。確かに、動きは緩慢になっていたものの、20歳にしては階段の上り下りなど一歩一歩がしっかりしていたのは、丈夫なホネのお陰だったのか。見せられた全身骨格が我が猫ながらあまりにも見事だったため、母は悲痛・驚嘆こもごも到るに任せ、写真として残すのを失念したらしい(見てみたかった……)。
霊園の桜の大樹下に設けたカロートから別の世界へと、ハナ・メグ・ブランが旅立って行った。サスケだけは、カロートと別世界が繋がる前、実家の梅の木から出立した。

サスケは、実家の庭に来ていたグレイの娘・ロンパリの子どもである。メグの母親であるほくろとロンパリは姉妹で、同時期に子どもを授かったため、サスケとメグは誕生日が数日違いのいとこ同士である。
メグが食に興味を示したのに対し、サスケの関心は家の中だった。当時、まだ実家暮らしだった兄が出勤する時間になると、どこからともなくサスケが玄関に現れ、警戒するような素振りもなく中へと入って来る。先住のハナを横目にリビング内を探検していると思ったら、庭にいるロンパリに気付いて窓に手を付き二本足で立ち上がり、「ここだよ~」なのか「出して~」なのか分からないけれどせわしなく両手で窓を掻く仕草をするのだった。メグとサスケを我が家に迎えたあとでも、サスケは暫くの間この窓掻きをしていたため、外に出してやることがあった。そしてどこで見計らっているのか、朝になって兄が出掛ける時分には首の鈴を鳴らしながら戻って来て、玄関から中へ入るのだった。あるときサスケがノミをもらってきて、ニャンズだけでなく人間にも被害が及んだため、それ以来サスケは外出禁止となった。他のニャンズは脱走したことはあれど、家猫として育ててきたため、我が家の猫はみな箱入りだった。

足の長い動物の子ども、例えば仔馬とか仔鹿が初めて走るときに身体の動きがアンバランスで、足全体で地面をうまく蹴れず、つま先走りのように重心がやや上になっていることがあるけれど、子猫時代のサスケの走りも同様だった。飛び跳ねる一歩手前のように上下に動く身体は、軽やかだけれどつまづきそうな危なっかしさがあり、それがまた可愛らしくて、この走り方を見たいがために私は紐やらスーパーボールをサスケの目の前にちらつかせていた。
サスケは尻尾が短く、7cmほどだった。そのため、他のニャンズのようにファサファサ振ったりピンと立てたりする尾の表情を見ることはできなかったけれど、こちらの声には反応してピョコピョコ動いていた。テーブルや出窓の端に垂らされた(実際にはちょこっとはみ出ている程度)尻尾は、
「サスケくん」
と名を呼ぶと、電気仕掛けのぬいぐるみのように硬い動きで左右に揺れたり、毛の先端を触ったときのように小刻みに震えた。短くても振ってるねぇ、お返事してくれてるんだねぇ、と何度も声を掛けたりしたものだ。
また、サスケは寒がりで、冬の朝などはご飯どきに姿を現さず、日が高くなっても布団にくるまって寝ていることがあった。あるとき、母が布団を干そうとして押し入れから取り出して広げたところ、中からサスケがゴロゴロゴロ~っと転がり出てきた。
「まあ、エリザベス・テイラーみたいねぇ」
母が映画『クレオパトラ』での有名な絨毯のシーンを引き合いに出したくなるくらい、サスケは母が持ち上げた布団に上手に身体を預けたまま回転し、伏せの状態で床に着地した。映画と異なるのは、サスケは何が起きたか分からず寝ぼけ眼をしていたというところだろう。

うちのニャンズは抱き上げられても平気だったけれど、数分を超える抱っこには抵抗した。その中でもサスケは比較的長く抱かせてくれたように思う。加えて、他の子はしなかったけれど、サスケは抱っこの最中に手や腕をペロペロと舐めてくれることもあった。最後にちょっと甘噛みしたりするところもツンデレで可愛かった。
我が家に迎え入れた当初は外へ出たがったりしていた割に、サスケは他の子よりもスキンシップを求めていたようでもあった。
私はアレルギー体質で、社会人2年目の頃、身体全体にアトピーを発症して転地療法を考えたほどだった。顔・首・わきの下・肘や膝裏・お腹・背中・太もも・ふくらはぎ……。全身は象肌のように皴が寄り、掻傷や浸出液でいつもヒリヒリ・ジュクジュクしていた。赤茶色になった患部が恥ずかしくて人目が気になるし、満員の通勤電車などでは掻痒感に耐えられず、貧乏ゆすりのようにずっと身体を震わせていた。いつもなら、サスケが足元に擦り寄ってきたら抱っこしたり、スリスリされるがままになっているのだけれど、このときばかりは患部と接触しないよう、サスケの身体を押しやっていた。サスケとしては、何度寄って行っても私が遠ざけるものだから、小さなかすれ声で「……ャーン(サスケは、口を開いているのに声が出ていないことがよくあった)」と鳴き、寂しそうな上目遣いを私に向けるのだった。暫くして、私の右ふくらはぎ前方に小さな水疱が連なって現れ、徐々に範囲が広がった。もしや、帯状疱疹?痒みだけで痛みはないけれど、一周回ったら、私、死んじゃうのかしら?恐ろしくなり、通院している皮膚科に慌てて駆け込んだところ、何とカビに侵されているとのことだった。医師の見解は、患部にサスケの身体が触れたとき、何らかのカビが付いてしまい、そこにアトピーの軟膏を塗り込んだものだから、薬の湿気がカビの餌となってこんなに広がってしまったのだろう、とのことだった。治療としては、まずカビをやっつけてからアトピー、ということで、抗真菌薬で水疱が姿を消したのち、アトピーの薬に切り替えた。
あの一時期は「寄らないで!」とサスケを拒絶し、その都度サスケは悲しそうにしていたように見えたから、治ったあとはそのときの分も含めてもみくちゃに触れ合った。サスケはツキノワグマのように胸元に白い毛があったので、当時ダイハツのCMでツキノワグマ(の着ぐるみに入っている人)が
「あか~ん、あか~ん、ダイハツ乗らな~あか~ん、あか~ん、他のに乗ったらあか~ん、あか~ん」
とやっているのを真似て、
「はい、サスケくんもやりましょ」
と無理やり二本足で立たせ、あか~ん、あか~ん、と空中を叩くように手を動かしたりしていた。大抵の場合、サスケは真面目くさった顔をしてされるがままになっていたが、私がしつこく何回もやったときなどは、腰を落として座り込むような姿勢になり、鳴きもせず私をじっと仰ぎ見て
「もうやりたくありません」
と意思表示するのだった。

2004年11月、インターン先のフランスで、サスケの別世界行きを知らされた。図書室にあるパソコンでメールを確認したら、件名でそれと分かる通知が父から届いており、開く前から包泣した。生徒が無遠慮な視線を向けてきたので、学校を出て数分のところにある公園の公衆電話から国際電話をかけた。繋がった瞬間、母も私も挨拶を交わすことができず、暫く受話器越しにむせび泣いた。サスケが辛いときに、ついていてあげられなかった。見送ることができなかった。サスケの側にいたかった。苦しいだけでなく寂しい思いまでさせたのではないか。サスケの気持ちを推し量ることはできないが、このような思いが無限ループとなって今も続いている。

サスケのあと、ハナ・メグそして先日ブランが別の世界に居を移し、今頃はみんなでドロスコドロスコ賑やかに過ごしていることだろう。
11月29日は、ここに書き切れなかった楽しい思い出とともに、サスケを偲ぶ。

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