猫話~ローラ宅のジプシー~
『コート・ダジュール発祥の地で、古くから地中海貿易で栄えた街。近くには楽園と呼ばれる島や高級リゾート地があって、海外から訪れる人も多い』
フランスで2回目となるホームステイ先の街は、華やかなイメージを持たれる謳い文句よりも、のんびりとして落ち着いた雰囲気だった。
フランス海軍に勤めていたローラは、過去に何人もの留学生を受け入れており、日本人も多数いたようだ。イタリア系の彼女は陽気で明るく気さくな人だったので、私は1か月の滞在中、彼女と和やかに過ごすことができた。ローラの住まいは四角く横長で単調な造りの5階建てマンション。エレベーターはなかったが、フランスではありふれた設備環境のため、4階に住むローラからぼやきを聞くことは一度もなかった。2LDKの室内は整然としているが温かみがあり、家族の写真や季節の花・カラフルなクロスで彩られていた。提供された個室に通されたときも、甘く柔らかい香りのするバラが活けられていて、おもてなしの心遣いにいたく感激したのを覚えている。
ローラにはお母様と、結婚したお嬢さん一家がいるが、皆別々に暮らしていて、お互い定期的に顔を合わせていた。ローラは離婚していたが、元旦那さんとも交流があり、私は彼女の家族と一通り面識を持った。
ローラの相棒は、目下のところ猫のジプシー。キジトラとサイベリアンもしくはノルウェージャンフォレストキャットのミックスではないかと思うが、はっきりしていない。ふわふわとしたブラウンマッカレルタビーで、優雅な雰囲気を持つ猫だった。ステイ初日から普通に顔を見せてくれたので、元々動じないタイプか、今まで滞在してきた留学生によって人慣れしているのだろう。毅然としていて人間に構う様子はなく、額や尻尾をスリスリされたことはなかったが、身体を撫でても嫌がらず、付かず離れずの距離を保っていた。
そんなジプシーをローラはとても可愛がっていたが、1つだけ許していないことがあった。それは、『テーブルに上ってはいけない』ということだった。ローラ宅にはキッチンに四角いテーブル・リビングダイニングに丸テーブルがあって、朝はキッチン・夜はリビングダイニングで食事をしていた。
「食事をするテーブルに乗ってはダメとしつけているの。もしジプシーが上りそうになったら注意してね」
果たして、椅子や棚はOKで食卓だけNGだということをジプシーは理解しているんだろうか?と私は疑問に感じていた。だが、どうやら分かってはいるようだ、と納得する出来事が滞在後すぐに起こった。
ローラは料理上手で、イタリア系らしく得意料理はパスタ・特にラビオリは絶品だった。私も手伝わせてもらったのだが、麺棒で四角く均等な厚さに皮を伸ばすことに多少手こずった。皮に500円玉大の具を等間隔で乗せ、具の上からもう1枚皮を被せる。そのあと、切り口がナミナミになるローラーカッターで切り分け、沸騰したお湯に投入していく。その様子を、ジプシーはキッチンの椅子に座ってじっと見ていた。麺棒がコロコロしていたり、切り分けられたラビオリがくっつかないように1つずつ粉をふられて目の前に置かれたりしたら、猫は手を出したくなるんじゃないかと思っていたのだが、ジプシーは目で追うだけで微動だにしなかった。さて、いただきましょう!とダイニングテーブルに移ったとき、ジプシーは私たちについてきて隣の席に姿勢を正して座った。
ラビオリは皮が薄いのに弾力があり、つるんとした喉越し。ローラのボロネーゼソースは酸味と甘みが絶妙で、チーズをガッツリかけて頂いているとき、テーブルの端に丸い毛玉がゆらりと浮き上がるのが見えた。そそ~っと伸びてくる毛玉はお皿に届かず、茶褐色の毛の塊がテーブルに乗りそうになったそのとき、ローラがけたたましく
「ジィプシィ~!!!」
と叫び、セルビエット(食事中膝に掛けるナプキン)をその塊めがけて振り下ろした。もちろんローラは加減していたから、セルビエットは塊ではなくテーブルに打ち付けられたのだが、あまりの剣幕に仰天してしまった私はラビオリで窒息するかと思った。危うくセルビエットでぶたれそうになったジプシーは「バレた!」とばかりに(そりゃ、そんな毛むくじゃらの塊がテーブルに乗ったら誰だって気付くでしょうよ……)目をつぶり、M字マークの額にしわを寄せた。
その後も2回ほど、肉料理などにジプシーが手を出そうとして椅子から身を乗り出したとき、ローラは必ず声とセルビエットで愛猫を威嚇した。ジプシーは懲りずに「それ気になります!」とテーブルに両手を掛け、椅子の上に後ろ足で立ち上がってモゾモゾ身体を動かしたり、「ちょっと味見させてください」とローラの腕をチョンチョンとつついたりしていたが、テーブルに乗るという行為はなんとか押しとどめていたようだ(セルビエットは厚手の布製なので、当たったら痛そうだし)。
ローラが不在中にテーブルに乗っているかも知れないじゃないかと思うかも知れないが、ジプシーはアウトドア派だった。朝ローラが出勤する際、たいていジプシーも外へ出る。猫用ドアなどはないため、ローラの出勤時か、そのあと学校へ向かう私と一緒に出なければ家の中に閉じ込められてしまう。天候が悪くない限り、ジプシーは毎日外出していた。ローラが帰宅するまで結構長い時間を外で過ごすことになるのだが、日課となっているためか、窮屈なのが苦手なのか、ジプシーは外を好んでいたようだ。猫にとってもマンションの階段を上り下りするのは大層なことではないかと思うのだが、ジプシーはふさふさしたしっぽをピンと立て、傾斜の緩い階段を軽快に行き来していた。
不思議だったのは、帰宅したローラが車を止め、駐車場で名前を呼ぶと、どこからともなくジプシーが姿を現すことだ。ローラは職場から真っ直ぐ帰るときもあれば、買い物などでどこかへ寄ってくるときもある。それなのに、「ジプシー!ジプシーはおらぬか!」「はい、これに」のタイミングで姿を見せるなんて、従者か忍者みたいだ、と私は驚いていた。猫の行動範囲は半径100m~最大2kmと言われているから、いつもマンションの近場で過ごしているのかも知れない。でも、「まだ戻りたくな~い」とか「今日は遅くなります」みたいな気ままさはなく、「ローラが戻って来たからお迎えしないと」といった具合で毎回律儀に現れるので、こういうところはあまり猫っぽくないな、と思っていた。少なくとも私が滞在していた間、ジプシーはローラと一緒に家へ入っていたから、「戻ったので中に入れてくださ~い!」と声高に鳴いたりドアを引っ掻いたりする場面には出くわさなかった。
ホームステイの1か月が終わったあとも、私はローラとやり取りしていたので、別の機会に2度ほどお宅にお邪魔したり泊めてもらったりした。最後に訪れたのは、初めての滞在から4・5年経っていて、以前ほど留学生を受け入れていないようだった。仕事をしながら他人の世話をするのは体力的に厳しくなってきたのだろう。かつては全ての料理を一から手作りしていたが、多少市販のものも利用するようになっていた。とはいえ、料理の腕前は変わらなかったし、手際良くこなしたあとに「パ・ドゥ・パニック!(慌てたりしないわ!)」という口癖もそのままだった。
ジプシーも健在だったので、家でのんびりしているところを見計らって写真に収めておいた。猫にとっての5年だと、人間の20年くらいが過ぎてしまったことになるから、多少見た目にも経年の変化が表れているかと思いきや、顔立ちも毛並みも若々しい。階段の上り下りや毎日の外出が若さを保っているのかしら。
「相変わらず美猫ちゃんだねぇ」
眠っているジプシーに顔を近づけ、耳元でそっと呟くと、「それが何か?」とでも言いたげに私をちらっと上目で見て、またすぐに瞳を閉じた。