ジャパニーズ・ドント・クライ?

泣くという行為には究極のリラックス効果があるのだそうだ。よく泣くということは、それだけストレスなどを抱えているのだろうか。
思えば、私は小学校3年生まで泣き虫だった(そんなにストレスがあったとは思えないが)。はっきり時期を覚えているのは、当時担任だった男性の先生が
「泣くのは赤ん坊のときと親が死んだときだけ」
と言ったことがあり、すぐ泣いてしまう自分を恥ずかしく思った経験があるからだ。
その先生の指導は大らかで、ユニークだった。牛乳は噛んで飲む、お肉より野菜を多く摂る、柔らかいものより硬いものを食べる、といった食に関することや、エスカレータは使わず階段を使い踵を浮かせる、足裏の刺激が大事、というような身体に関すること、また、席を立つときに椅子を引かないのはトイレでお尻を拭かないことと同じだよ、と作法に関することまで、ちょっとした一言が心に残っている。先生が若かった頃のケンカの流儀なんかも話してくれて、私には新鮮で面白かった。私が初めて物語を書いたのは3年生のときで、最初に読んでもらったのも先生だった。フランスのインターン講義で切り絵を取り入れたのも、先生の影響が少なくない。
先生の言動には触発されることが多かったから、泣く行為に関する一言を聞かされたとき、私は顔を上げていられなかった。
人見知りで、同級生との口ゲンカでもすぐに言葉が出てこない。1つ言われたことに対して言葉を探していると、相手は2つ3つと畳み掛けるようにまくしたてる。言い返せない自分がもどかしく、感情が高ぶって涙が流れる。泣きたいと思っているわけではないのに勝手に涙が出てしまうことを「泣き虫」「なんですぐ泣くの」などと嘲笑されるものだから、更に悔しくて涙があふれた。
こんな自分を変えたい。
“泣いてはいけない”。
この暗示は、先生の影響力に比例して、私の中に長く留まることになる。

時代が平成へ移行しても、私は暗示にかかったままだった。フランスにおける1年間のインターン生活では、悔しくて泣きたくなることもあったが、いつも「昭和の女たるもの、簡単には泣かんのだ!」と、自分を鼓舞していた。
社会人になってから、営業職で身に着けた擬態能力により人見知りではないように装っていたものの、会話が流暢になるわけではない。ともすれば幼少期の口ゲンカなど遠く及ばないほど、ベラベラベラと喋り倒すフランス人たちの話題に割って入れるほどの読解力や図太さも持ち合わせていない。「あの子はフランス語がちょびっとしか話せない」とか「意見はないのかしら」などと陰口を叩かれると、憤懣やるかたない気持ちになり反論したくなる。自分の語学力を棚に上げての感情だから、実行に移せず悶々とする。ああ、不甲斐ない!でも、暗示のお陰?で泣かずに済んだ。
それでもどうにもこらえ切れず、涙を流してしまったことがある。
高校の図書室でメールをチェックしていたら、初めて父からのメールが届いていた。件名に我が家で飼っていた猫のうち1匹が亡くなったと記されており、悲しみよりも先に、心の準備もさせてくれないのか、と腹が立った。開いて詳細を目で追うが、視界がぼやける。そのときはすでに人目もはばからず泣いていた。自習していた生徒たちに見られていることは分かっていたが、放っておいてくれ、好きに泣かせてくれ、そんな状態だった。
外へ出て公衆電話から実家に電話し、繋がった瞬間にまた泣いた。真昼間に受話器を握りしめて泣いている外国人を奇異の目で見ている通行人にも構わなかった。
学校へ戻ると、早速マリーが
「生徒から、シホが泣いて出て行ったと聞いたのだけど」
と心配そうに尋ねてきた。ダメだ。思考が涙腺に直結している。なるべく考えないようにして話そう。さらりと一連の話をすると、マリーも顔を曇らせ、
「私も猫を飼っているから、あなたの気持ちは理解できる。残念だわ」
と慰めてくれた。マリーは私の気持ちを察してすぐ1人にしてくれたので、私は目元が落ち着くまで、しばしトイレにこもった。
それなのに、教員部屋に行ったところ、公衆電話で私が泣いているところを見かけた人がいたらしく、1人の女性教員から
「外で泣いていたと聞いたのだけど、何かあったの?」
と声を掛けられた。
『ある日、ムッシューGのダメ出し』のときもそうだが、ホントにみんな耳が早いのね~。誰がどこで何を見ているかわかったものではなくて怖いわ~。心配してくれるのはありがたいのだけれど。
また説明しなくてはならないのか、と思ったら涙がこぼれそうになる。
「大丈夫?」
「ええ、まあ……。飼っていた猫が亡くなって」
「そうだったの……。それは残念だわ。思い切り泣いていいのよ」
その一言に、涙腺が崩壊しそうになる。慌てて目頭を押さえると、女性教員は小首をかしげ、こう言った。
「フランスでは、男の子が涙を流していたとしても、泣くくらい優しいのねって言われるわ」
この瞬間、私の長年の暗示はゆるーく解けていった。

泣くという行為。私は担任の先生の一言が大きく影響したが、令和の時代、日本人男性もフランス人男性のように、段々泣くことに抵抗がなくなってきているのではないかと感じている。
勝手なイメージだが、アメリカ人は弱みを見せないようにする国民性があるように思うので、人前では泣かないのではないか?映画『ボーイズ・ドント・クライ』の裏話となるが、主人公(ヒラリー・スワンク)に危害を加える役の男性俳優が、そのカットの撮影後、陰でひっそりと泣いていたそうだ。目撃してしまったスタッフ談として、役の上とはいえ、自分が演じた人間の犯した罪の重さに感情が高ぶったものの、男性がたやすく泣いてはいけないという意識が働いたのではないか、タイトルとも相まって印象に残った、とのことだった。

泣くことによってリラックス効果が得られるのであれば、今は泣きたいときに泣いてもいいかな、と思ったりもする。とはいえ、状況を打破するのに涙で解決しようなんて思わないし、できるのは若いうちだけ(そもそも若い頃もそんな手段を取ったことないけど)。一方、悲しいときや感動したときは感情を人と分かち合いたいときもある。ただでさえ年々涙もろくなっているから、自分でもびっくりするくらい簡単に泣きたくなってしまう。まだ羞恥心が勝ってしまうので、人前ではやはりこらえてしまうのだけれど。

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