ある日、花に囲まれて
ハロウィンが終わって一気にクリスマスムード。朝晩の肌寒さや陽陰りの早さが、家族団らんとか神々しい天上人への畏敬の念や感謝の気持ちを抱かせるイルミネーションの雰囲気を高めるのに一役買っている。
私の住まいの近くでは、金木犀がそこはかとなく姿を消したのち、自然界の香や暖色をほとんど感じられなくなるため、華やいだ空気に少々当てられたりする。当てられているのは空気だけではないような気もするけれど(笑)。
動植物に囲まれていた人は、その癒しのパワーを誰もが感じてきたのではないだろうか。自分の隣に家族や友人がいたとしてもその力を実感するのだから、独りのときは尚更だ。フランス滞在中、私は他家の動物や身近にある植物に幾度となく慰め・励ましてもらったものだ。
ホームステイ先や友人宅にはたいてい、動物がいたり花が活けられていた。
2回目のホームステイ先だったローラの家では、「ここを使ってね」と部屋に案内されたとき、サイドテーブルに飾られたバラの香気で緊張がほぐれた。芳香剤かと思ったら生花だったので、こんなにも香るものなのだ、そしてこんなにもまろみのある香りなのだ、ちまたで売られているバラ香はなんて刺々しく毒々しいんだ、今までバラ香が好きじゃなかったのは品のない化合物の先入観があったからじゃないのか、などと感動とも苛立ちとも八つ当たりとも言える混ぜこぜの気分になった。ローラに
「部屋はどう?何か足りないものはない?」
と聞かれたとき、清潔で明るく心地よく整えられたしつらえへのお礼も忘れて、
「こんなに良い香りのするバラは初めてです」
と言ってしまったくらいだ。ローラは
「それは良かった!友人が育てたもので、香水に加工されたりもするのよ」
と満足そうに声を立てて笑った。私は、香水にするなんてもったいない、ナチュラルに人を魅了している個性に手を加える必要などない、そのまま時の赴くままに咲かせてあげればいいのに、と口惜しく感じたが言葉には出さなかった。後日ローラは、
「シホもあなたのバラを気に入ったのよ」
とそのご友人のバラ園に案内してくれた。寡黙で職人気質のムッシューが、ベロアのようなトライコームに包まれ、中心はかっちり・外側がふんわりと開いて寛雅に香る真紅のバラを、ローラと私に1本ずつプレゼントしてくれた。真紅のバラに意味を見出す人がいるならば、バラを生業にしている人からのプレゼントは除外した方が良いだろう。いくら愛の国とはいえ、彼らが育てている何万本ものバラ1本1本の意味を考えてから一人一人に差し出すわけではない。
私はこのバラの香りも気に入ったので、花びら数枚を押し花にして、日本へ持ち帰った。それは押し花になったあとでも、しばらくかそけき個性を残していた。
ローラ宅には、ホームステイが終了してからも2回ほどお邪魔させてもらった。1度はインターン期間中、ニースのカーニヴァル観光の帰りに訪ねたときも、部屋にはバラが活けられていた。そのバラは香らなかったけれど、ローラがいつも明るく前向きで、
「pas de panique(パニックにならない、問題ない)!」
と笑いながら口にできるのは、花に囲まれて少なからず鷹揚になれていたことが要因の一つではないかと思う。
※下の写真は、カーニヴァル後ローラ宅にお邪魔したとき。薄ピンクのバラは香らなかったが、クラシックな花びらの巻き加減は上品で優雅。チューリップの花束は、パレードの山車から観客に向けて花が投げられるのをキャッチしようと待機していたところ、宇宙人的な衣装を着て踊っていた小柄な女性が、小刻みに身体を左右に揺らし小走りで私の前に近寄ってきて、手渡ししてくれたもの。この贈り物に感激してしまって、感動を伝えるべく、お菓子を買い込んでローラ宅に参じてしまった。
庭がある家の住人・例えばラシェルなどは、自宅で様々な植物を育てていて、いつも周囲の人々にパワーのおすそ分けをしてくれた。彼女は私にも、庭の花でポプリやブーケを作ってくれたり、自家製野菜や果物で食事やお菓子を振舞ってくれた。
私が初めてラシェルの家に泊まったとき、用意してくれた離れの部屋には、庭で咲いたコスモスが勢いそのままに活けられ、花瓶の前にはラシェルの娘・ベリンが描いてくれた招待画が添えられていた。ベリンは私の名前が聞き取れなかったようで、‟Pour Chiro:チロへ”となっているのはご愛敬だ。ちなみに、フランス語の筆記体大文字のCとSは似ていて、上半分のクルンとした部分は同じ、下半分が右方向にそのまま続いたらCで、左方向に楕円のループを描いてから右方向に続けばSだ。最初、Shiro:シロと書かれているのかな~と思ったのだけれど、右にそのまま連なっているから、‟チロ”なんだろうなぁ。『千と千尋の物語』のChihiroと、Shihoが同じに聞こえると言った人もいたから、SHIもHOも聞き取りづらい音のようだ。
その後、私は何度か離れに泊めてもらい、その都度、ラシェルは庭に咲いている花を部屋に用意してくれていた。
ラシェルは学校にもパワーを届けてくれた。教員部屋やラシェルの仕事場である図書室、マリーの城である自習室とその片隅に用意してもらった私の席など、彼女は惜しげもなく植物の力を持ち込んでくれた。公共の場を自分仕様にしてしまっていいのかしら、花瓶が割れたり水が漏れたりしたらクレームが出ないかしらと戸惑っていた私も、何事もないように愛でて過ごすフランス人を前にして、自分の堅苦しさが煩わしく、改めて辟易したものだ。
ラシェルは花を活けるとき、形の悪いものを間引いたり、見栄え良く無理やり整えたりせず、そのままの在りようにしていた。彼女が育てた植物はみな、華やかであろうとなかろうと、蕾であっても咲き誇っていても散り際であろうとも、力強く存在感があった。植物はラシェル自慢の子どもであり、植物も自分たちは個性豊かに成長しましたと自信を持っているかのようだった。インターンとはいえ学校という現場に足を踏み入れた私は、人も植物も、すくすくと成長するとはこういうことじゃないのか、と考えさせられた。
冬場は花が少なくなるものの、クリスマスローズや水仙、椿や蝋梅などが咲く場所もあるだろうから、探しに行ってみるのもいいかも知れない。植物園にはあまり惹かれないので、近場で見つけられたらいいのだけれど。
現在勤める会社では、取引先から立派なシクラメンが贈られてくる。お嬢様を枯らしてしまっては大変、と日当たりやら空調やら水はけを気にしながら腫れ物に触るようにみんなでお世話し、しおれてきた葉や花は間引き、ただひたすら見栄えを保とうとしている。今年はどんな個性の子なのかなどと推し量る余裕もない。しかも年末年始を挟むとあって、秘書の女性は毎年、お嬢様が元気でいるかどうか気をもみながら、年明け初の勤務日を迎えている。
フランスとは違い、日常的に花を活ける習慣のない職場内は、植物の成長には適さない。植物の成長には、ローラのような鷹揚さとラシェルのような個性の尊重が必要なのかも知れないけれど、放置はしないほうがいいよねぇ(どうして人がいなくなる時期の職場に植物を贈るのかなぁ)。
日本の職場環境(や私)はまだ、花に囲まれた生活には適応できていないようである。
※下の写真は、ステイ先の部屋。マルシェで購入したり、いただいた花を飾ったりしていました。