ある日、白い煙と名前の行方

「シホ、ジャン・ポール・ドゥを知っているかい?」
当時ホームステイしていたRDP家のムッシューからそう問われ、私は頭の中によぎった「ジャン・ポール・エヴァンさんなら……」という答えを口に出していなくて本当に良かった!と心底思っている。

外国の地名や人名など、海外での名称が日本では類似点を見いだせないカナ呼称になっていることがある。それはアルファベットを使用する国同士でも起こっていることなので、日本に限ったことではないのだが、勉強不足だった私には知らないことが多かった。インターンをしていた高校でも、「アルファベット順に都市名を答えよう!」というゲームが行われることがあったのだが、「フローロンス」「ヴィエン」などと答える生徒に、
(えっ、それどこ?)
と内心アセアセしていた(正解は、フィレンツェとウィーン)。

こういった都市名などはちょっと連想したら分かることもあるのだが、今回のRDPムッシューの問いについては、誰だかまったく思いつかなかった。
正解は、ヨハネ・パウロ二世。2005年に亡くなったローマ教皇だ。
(ヨハネ・パウロがジャン・ポール……)
ラテン語読みなのだろうか?そういえばスペイン語はYをジャと発音すると聞いたことがあるけど……などと思いつつ、私はこの優しくて敬虔なクリスチャンであるムッシューに自分の無知さ加減を見せつけなくて良かったと安堵したものだ。
(クリスチャンではないものの、一応、ヨハネ・パウロ二世のお名前くらいは知っています!ショコラホリックとはいえ、決してショコラティエの方と思ったわけではありません!!)
余談だが、ショコラティエのジャン・ポール・エヴァンさんのことは彼のパリのブティックでお見掛けしたことがあり、哲学的な渋い面持ちと、ちょっとはにかんだ笑顔が印象的だった。
世界的に有名なフランス人ショコラティエで、私は彼も彼のチョコも好きだとはいえ、やっぱりムッシューの前でエヴァンさんの名前を出していなくて良かった。呆れられるというより、ムッシューは悲しい顔しそうだし。
RDP家は本当に熱心な信者で、ヨハネ・パウロ二世が亡くなった時、パリにいる大学生の長女や次女はヴァチカンまで祈りに行ったくらいだ。ムッシューやマダム・三女や長男・四女は行くまではしなかったが、自宅やミサで祈りを捧げていた。

今回、ムッシューが私にヨハネ・パウロ二世のことを聞いたのは、逝去にあたりコンクラーヴェが行われることを知らせるためだったと分かった。
「コンクラーヴェの様子がテレビで放映されるんだよ。どうだい、一緒に見ないかい?」
私も、こういう機会はそうそうないだろうと思ったので、ムッシューの提案を受け、テレビの前で新教皇選出を見守ることにしたのである。
私はその日インターンの授業がなかった(確か平日だったと思うのだが、ヴァカンスシーズンだったのか、学校には行かずステイ先にいた)ので、時間はたっぷりあった。一方、ムッシューは自宅で仕事をしながら見ていたので、ずっとテレビの前に張り付いていたわけではなかった。
「シホはゆっくり見ていなさい」
ムッシューは私を気遣い、飲み物やお菓子を色々と用意してくれた。そして、自分がテレビの前から離れるときには、
「もし、白い煙が上がったら教えてくれるかい?」
と、結果を気にしていた。
だが、コンクラーヴェの放映はとっても地味である。ただただ、立ち上る煙を映し出す画面。時々煙の行方を見守る信者の顔がクローズアップされたが、黒い煙が出ている間は解説もなく、ずぅ~っと、延々と、モクモクとした煙の様子が流されるだけだった。
しかも、未決の間の煙はもっと真っ黒なのかと思っていたが、白鼠のように結構明るいグレー。曇り空だったし、画面への映り具合によっては「あれっ、白い煙になった?!」と勘違いすることがしばしばあった。
私は最初のうち2回ほど、
(白い煙かも……)
と不安に思い、ムッシューに
「白い煙になったかも知れないです」
と報告していたが、どちらも違っていたため、ムッシューの仕事の邪魔をしてしまった(穏やかなムッシューも、さすがにちょっと困り顔だった……)。
決まったときはリポーターも周囲も騒ぐだろうから、とムッシューに諭され(考えてみたら、そりゃそうだ)、その後は白い煙が上がったかもと思っても、周囲の様子から「これは違う」と判断し、ムッシューには知らせずにおいた。そうして私はその日の長い時間の大半を、ほとんど一人で、煙の行方を見守っていた。
残念なことに、その日は結果が出ず、コンクラーヴェは翌日に持ち越されることになった。2日目はマダムや子ども達もテレビを見ていたので、ムッシューに結果を伝える役目は家族にお任せすることにした。それに、申し訳ないけれど、私は2日目も張り付いて見守るほど熱意があったわけではないので、ときどきテレビの前に出向いては、結果を確認しに行く程度にした。

「シホ!白い煙が上がったよ!!」
ムッシューが興奮した声で私を呼ぶ。慌てて駆けつけると、風に揺られ細く太く形を変えながら流れる煙の様子が画面に映し出されており、興奮したリポーターの声や周囲の歓声がバックで聞こえていた。でも、
(未決の煙とどこが違うんだろう?)
今日も曇り空だったためか、白鼠と白の違いが分からない。私の目が悪いのか??
なんだか釈然としなかったが、ともかく新教皇が決定した。名前は「ブノワ・セーズ」。
(日本ではどんな風に呼ばれるんだろう?)
私がそう思ったのは言うまでもない。

帰国後、私はブノワ・セーズの名前を確認した。
「ベネディクト16世」
う~む。ブノワがベネディクト、ですか……。絶対、連想できない!
ドイツ出身の教皇とあって、フランス人クリスチャンの間では、ヨハネ・パウロ二世のときほどの人気は出なかったと聞いた(第二次世界大戦の影響とのこと)。在位も短かったし、存命中の退位はおよそ600年ぶりだったようだ。滅多にないと思っていたコンクラーヴェを、思ったよりも早く日本のニュースで見ることにもなった。ニュースだと、白い煙が上がったところだけ放映されるから、未決の煙との違いを確認することはできなかったのだけれど。
白鼠と白の違いが分からなかったコンクラーヴェ。呼称の違い。
未知の経験が、また一つ、私の中に蓄積されていく。

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