ある日、牽制と融和
もしかしなくても、私、敵視されてる?!
原因は、私の横にいるこの人。涼しい顔をしてみんなと話しているが、君は分かっているはずだ。周囲にいる人たちが君を狙っているということを!
「ああ、でも、タイプじゃないんだよね」
ニコはさらっと辛口コメント。初対面のうちは誰に対しても当たり障りなく接しているので、男女問わず、彼の周りには人が集まってくる。彼がゲイであることや聾唖であることから、親しくなるのはそのうちの数割。そうやって時間を掛けて打ち解けた相手に対して、ニコは最初の印象とは異なり、結構はっきりと物申していた。
「何となく分かるものなの?相手がゲイかどうかって」
「夜のゲイバーに出入りしてたら分かるけど、レインボーカフェ(LGBTやその活動を支援するカフェ)だと一目では分からないよ。いいなと思ったらチラチラ見て、それっぽかったら声を掛けてみて、話の中でそれとなーく確認して」
「それで、相手がゲイだと分かったら?」
「まあ、まずは友達からだよね」
「ゲイじゃなかったら?」
「相手次第かな。それじゃ、って離れていく人もいるし、そのまま友達になることもある」
「いいな~と思った人が離れて行っちゃったら?」
「残念、はい、次」
「好みじゃない相手から好かれたら?」
「期待には応えられないけど、居たいならいれば?ってところかな。しつこくされたら断るけど」
ニコがこんな具合なので、彼の気を引きたい女性やゲイの方々が取り巻きとして少なからずいて、お互いに牽制し合っていた。
ニコの周囲の人からは、私もそのうちの1人だと捉えられていたのだろう。彼と一緒にレインボーカフェに出向いたときのことだ。その日は日本語レッスン日で、ニコから「外でやろう」と連れ出された。彼に週1回のレッスンを依頼されてからまだ日が浅く、その頃の私は手話ではなく筆談や口の動きを読んでもらうなどして会話していた。そのカフェは、店主がお品書き用のホワイトボードを貸してくれるらしく、「これで筆談できるでしょ」とノートパソコンサイズのボードを受け取ったニコがカウンターで私とレッスンを始めようとした。そのとき、鼻の下に髭を生やし、Tシャツを肩までまくった筋肉質で小柄な男性が店に入ってきた。体格的にはタイのムエタイ選手みたいだ。顔立ちもちょっとアジア系。両腕にタトゥーが入っている。
「よお、ニコ」
その男性はニコに気付くとまっすぐ彼に近づいて来た。ニコより手前にいた私を鋭い眼差しで一瞥したのち、「元気か?」とニコに手を差し伸べ、私が座るカウンターチェアーにガツンとぶつかった。
(あれ、きちんと引いて座ってると思ってたけど?)
男性は私を挟む形でニコと握手している。不自然な体勢だったので、場所を空けようと私が椅子から下りたときだった。男性は握手している方とは逆の手で、私の脇腹にぐいっと拳を押し当てた。
(痛っ!)
ちょっと当たったというレベルではなく、故意に押している。
(誰?なんで??何するの???)
びっくりして男性を見つめると、彼はニコから手を放し、笑顔を硬直させたまま私の方に向き直った。
(目が笑ってない~!)
男性は私とニコの間に割り込み、カウンターに肘をつき、ニコと2人で話を続けようとした。
「ミッチー。彼女はシホ。僕に日本語を教えてくれている。話はまた今度」
そうか、彼はミッチーというのか。
(って、誰や?!)
私の社会人経験だと、双方を知っている人(この場合はニコ)が互いを紹介すると思うのだが、私の紹介だけで、ミッチーのことは紹介してくれないの?
「へえ~、ニコ、お前日本語なんかに興味があるのか?」
はい、ミッチーが「なんか」と思っているかは分かりません。相手に対しあまりよろしくない先入観をもって異訳してるだろ、と言われればそうかも知れません。でも、ニュアンスで伝わることってあるでしょう?!日本(語)に良いイメージを持って言った感じじゃなかった!それに、さっきの態度。椅子にぶつかったり拳で押したのはわざとだよね?!そんな相手が私に良い印象を持っているとは思えない。私にしても、ミッチーの第一印象最悪だし!
「僕が彼女に頼んでレッスンしてもらっているんだ。邪魔しないで」
ニコの言葉を受け、ミッチーは「そうか、悪かった。じゃ、また」と別のカウンター席へ移った。でも、でもですよ。何でずっとこっちを睨んでるのさ!
(怖いよ~。ヤだよ~。もう帰ろうよ~!)
その後、私はニコからミッチーがゲイで、前に言い寄られたことがある(そしてニコは断った)ことを聞かされた。そうか、それならニコはミッチーのことを紹介しづらかっただろうし、ミッチーが私に良い印象を持てない理由も分からなくはない。私はどうやったらミッチーが私のことを敵ではないと認識してくれるか思案した。だが、他にも同じような出来事が起こり、これはミッチーだけに対する問題ではないのだと思い知ることになる。
私がニコと知り合ったとき、彼は前職を辞め、仕事に就いていなかった。そんな彼を手助けしようとしている女性がいて、自分の知り合いにニコの状況を話し、引き合わせようとしていた。彼女は手話ができたので、ニコとは手話で会話していた。その女性を紹介されたときは私も少し手話を覚えていたので、彼女に手話で挨拶した。すると彼女は、
「あなたとは普通に会話した方がいいと思うの」
と声で返してきた。そう言うなら、と同意したところ、彼女はニコと向かい合い、ずっと手話で会話を続けた。2人の手話は早すぎて、読み取るのは難しい。私は2人の横に黙ったまま居座る格好となり、何とも身の置き所がなかった。
その女性とはニコと一緒にいるとき何回かお会いしたのだが、その都度彼女はニコに「話がある」と持ち掛け、高速手話で私を置き去りにした。あるとき、別のレインボーカフェのテラスでニコとレッスンしていた際、彼女が店の前を通りかかった。彼女はニコに気付き、店の中に入ってきて、また「話がある」と手話を始めた。こういうとき、ニコは私に「ちょっといい?」と断りを入れてくれるのだが、彼女からはそういった気遣いが全くなかった。こう毎回挨拶もそこそこに(彼女は私とフランス式の挨拶を一度もしなかった)自分の存在をスルーされるといい加減うんざりする。
(一言「今、いい?」くらいの声を掛けてくれても良くない?!)
いつものように私が会話に入れない時間が数分続いた後、ニコが席を立った。3人でいるときにニコがいなくなるというパターンは初めてだったので、私よりも彼女の方がソワソワし始めた。これがニコの他の友人だったら、私は一言・二言話し掛けていたことだろう。だが、彼女はこれまで私のことをずっと透明人間のように扱ってきたのだ。存在を主張したところで、私の気分が晴れるわけでもない。ということで、私はそのまま存在を消すことにした。だが、彼女は今まで見えていなかったものに気付いてしまったようだ。
「あなたはフランスで何をしているの?」
(は?それ、今更聞くこと?)
「高校で日本文化のインターンをしています」
「ニコとはどこで知り合ったの?」
「コミュニティセンターを通してです」
「ニコは日本語なんかを習って何をしたいのかしら?」
はい、ミッチーのときと同じです。彼女が「なんか」と思っているかは分からないけど、ニュアンスが伝わってくるよ?!
私は黙っていたが、彼女は気にせず話を続けた。
「私の知り合いの教授は手話の権威なの。私は教授にニコのことを紹介したわ。教授はニコと一緒に研究することを検討してくれている。彼にとっていいことだと思わない?」
(それはニコがどう思うかじゃないの?)
彼女の言葉に肩をすくめたとき、ニコが帰ってきたので、私はまた元の透明人間に戻った。
ある夕方、ニコがまたレインボーカフェへ私を連れ出した。そこはミッチーと初めて出会ったカフェだったので、私は正直気が引けた。私の懸念が見透かされたかのように、店に入るとすぐミッチーとばったり出くわした。
「よお、ニコ!」
まっすぐニコに近寄って来るミッチーに、私はまた何かされるんじゃないかと身構えてしまったが、今回のミッチーは少し様子が違った。妙に明るい。やたらと大声で、周囲の人に次々と声を掛けていく。でも、どこか覇気がない。カラ元気というやつだろうか。ミッチーに話し掛けられた人たちは、愛想笑いで適当な相槌を打ち、距離を置きたいという雰囲気を醸し出している。ミッチーはグラスを掲げ、店の中央に躍り出て、
「俺は自由だ!」
と叫んだ。
「そうさ、俺は自由になったんだ!ヤツと別れ、俺は解放された!今、サイコーの気分だ!」
どうやら、付き合っていた彼氏と別れたらしい。
(店の中で荒れなくても……)
ミッチーはずっと「俺は自由だ」「サイコーだ」を繰り返し、「な、そう思うだろ?」と店内の人々の肩を叩いて回っている。私はなぜかミッチーから目を離せず、じっと彼の行動を見守っていた。するとその視線に気付いたミッチーが突然
「おい、なんか言いたいことがあるのか?!」
と私に絡んできた。
「い、いや、その……」
「ア?」
「あなたが自由になったのは、いいことなんだよね?」
「何だと?」
「いや、だから、その……。あなたが元気ならそれでいいんだけど」
強張っていた表情が突如緩む。ミッチーは一瞬ポカンとしたのち、欲しがっていたものを見つけたかのように目を輝かせた。
「おい、みんな、聞いたか?こいつ、俺に『元気か?』だってよ!俺を心配しているぜ!」
周りから乾いた笑い声が上がる。ミッチーは少し神妙な面持ちになり、私の肩を叩いた。
「自由になったのはいいことだ。俺は元気だ。心配ない」
少しふらつく足で、ミッチーは店の奥へと消えて行った。
その後、ミッチーは私に対し、警戒心を解いたような姿勢を見せるようになった。ニコと一緒にいても、
「よお、今日はどんなことを勉強してるんだ?」
と笑顔で話し掛けてくる。例えが失礼かも知れないが、この変わりようは、ナウシカのテトみたいだ。散々荒々しい言動をぶつけてきて、いざ嚙みついてみたら「あれ?害はないかも」と急に距離を縮めてくるような。もちろん、ナウシカとテトのような信頼感や親密さは全然ないのだけれど。
手話の女性とも、あまり顔を合わせなくなった。
「彼女が勧めてた、教授との研究ってどうなったの?」
私が尋ねると、ニコは目を大きく開き、頬に空気を含ませ、口の中でポンッと音を立てた。
「僕はモルモットじゃない、って彼女に言った」
なるほどね。ニコにとっては、あまりいいことではなかったようだ。
また失礼な表現を載せることになるのだが、日本の友人にこういった話をした際、
「おこげ同士が大変だね」
と言われた。
(『おこげ』って……。『同士』って……)
何となく、モヤモヤする。私がそう感じるように、ミッチーも手話の女性も、取り巻きではなく友人としてニコと接してきたはずだ。ニコが私たちのことを「居たいならいれば」という存在として見ているかどうかは分からない。その線引きも、付き合い方によって変わったり戻ったりするものだろうと思う。現に、私も何かのときにニコと口論になり、「僕に母親は2人いらない!」と言われ、暫くの間距離を置かれたことがある。その後どちらが謝るでもなく仲直りしたが(お互いに頑固だ……)、私のどんな発言がお母さんのようだったんだ?と未だに納得できない(というか、どの発言をそう捉えられたのか分かっていない)。
ニコのパーソナルスペースはゴム製のようだ。広がったかと思えば、急にパチンと縮まる。いつも中に挟まっていると窮屈だし、伸び伸びの状態だと不安定だ。ニコはうまく伸縮させて、自分と相手の距離を調整している。私の場合は、ガチガチに硬い素のパーソナルスペースの周囲を蜃気楼でできた擬態のスペースが取り巻いている感じかな。自分でも擬態してるのかしてないのか分からなくなることがあるから、蜃気楼を見せてるつもりはないこともあるんだけど。
今日もお互いのスペースを、牽制と融和しながら交わっている。