ある日、“接吻”に当惑する
他国でその国の言語を話すとき、発音や言い間違いを指摘されたり、場合によっては笑われたりした人もいるのではないかと思う。
指摘されなくても、相手の反応から、何かおかしなことを言ってしまったのかも知れないと気付くケースもある。
何度かのフランス滞在中、私はたびたび指摘を受けた。日本人が苦手とするRの発音がよろしくない(riz:米やgrue:鶴など)と言われたのはよくあることで、culturelle japonase(日本文化)のLとRとか、Saint-Exupery(サン=テグジュペリ)のグジュペリあたりを何回も繰り返しリピートさせられたこともある。
また、私はtemps(時間)とthon(マグロ)の発音の使い分け(聞き分け)が苦手で、
「Il y a le temps maintenant(今時間ある)?」
と尋ねたつもりだったのに、
「Il n’y a pas le thon.Je ne suis pas japonais(マグロはないよ。日本人じゃないからね←寿司ネタを想定しての発言)」
と返され、日本人は働き過ぎで時間に余裕がないとかいつも揶揄するくせに、面倒だと思ったら自分の方が忙しい振りをするのね!などと嚙み合わないことを思っていた。
ちなみに、南仏ではこの2つにthym(ハーブのタイム)が加わって、
「シホが欲しいのは時間なのかマグロなのかタイムなのか分からない」
とインターン高校の同僚にからかわれたりしたものだ。
ミレニアムの頃に通っていた南仏の語学学校では、ちょっと恥ずかしい言い間違いをしてしまったことがある。クラス内で、1人ずつ自分自身について5分ほどスピーチしていくことになったときのことだ。
私は、学生時代に男子校で教育実習を行ったときの体験を話すことにした。女性用の設備がない、もしくは少なくて苦労したとか、保健体育の実習生は他の科目より1週間実習期間が長いため、最後の週は同期の女性実習生がいなくなって心細かったなど、クラスメイトにも何となく理解できる程度には伝わっていたようだった。
私がおかしいと感じたのは、クラスの担任だったセバスチャンの表情が途中から変化したからだ。さっきまで私の言いたいことを理解しようと真剣な表情で聴いてくれていると思ったのに、今はずっとニヤニヤしている。
(私、何か変なことを言っているんだろうか?)
その時私は、生徒たちの態度に当惑したけれど、折れない姿勢を貫いて接しようと覚悟した、という内容のスピーチをしていた。
「バレーボールの実習で、バレー部の生徒を中心に、4か所のネットを張ってから試合をすることにしたのに、2か所しか張ってくれなくて、生徒たちにembrasserしました」
セバスチャンがニヤリ。
「試合も、こちらで決めたチームではなく、仲良し同士で固まる生徒にembrasserし」
セバスチャン、またニヤニヤ。
「試合をやりたくないとずっと座っている生徒や、体育館から出て行こうとする生徒にもembrasserしながら」
セバスチャン、口を押えて笑っている。
なぜ笑われているのかが分からず、心うちは不服。でも、無事スピーチを終えてほっとしていた私に、ニヤけ顔のセバスチャンが発したのは
「シホ、君は随分生徒にembrasserしたんだね」
だった。
「はい、どうしていいか分からなくて……。embrasserしていました」
クククッ。
もう可笑しくてたまらないというセバスチャンの含み笑い。
「あの、私、何か変なことを言ってますか?」
ずっと笑われているのも落ち着かないし気になるので、私は答えを聞き出すことにした。
「シホ、embrasserがどういう意味か分かってる?」
「……?はぁ」
「他の言葉で表現すると、なに?」
「えっと(辞書を引いて)、etre perplexeとか、en difficulteとか?」
私の答えに、セバスチャンは、ああ、やっぱり、という顔で
「embrasserとはこういうことだよ」
と言って、唇を突き出す仕草をした。
(へっ?)
それって、ビズのこと?
なんでそんな言葉を使ったの、私?
私は手に持っていたスピーチの原稿を見直してみた。
(きゃ~っ!途中から間違えてる!!)
私が使いたかった言葉は“embarrasser(当惑する)”で、最初はちゃんとそう書かれていた。だが、どこかで書き写すのを間違えたのだろう。いつの間にか“embrasser(接吻する・抱擁する)”という単語になっていた。スピーチはなるべく原稿を見ないように、と指示されていたため、私はちらっと覗き見たembrasserでずっと話を進めてしまったようだ。都合良く(私にとっては悪く)、意味も通る言葉だったので、疑問に思わない人もいたようだ。
クラスメイトのベットは、
「あら、生徒がかわいかったらembrasserをしてもおかしくないんじゃない?」
とか言うし。
ない。日本では絶対にない。いや、フランスでも私はそんなことしません!
それじゃただのキス魔じゃないかぁ~!
セバスチャンは日本人が日常的にビズやハグをしないことを知っていたから、これは私が間違えているな、と気付いたらしい。でも、ちょっと面白いからそのままスピーチを続けてもらったんだ、と今度は声に出して笑った。
……いい趣味とは言えないと思う~!
こんなことがあったので、私は二度とembrasserとembarrasserを間違えなくなった。まあ、どちらもあまり使用する単語じゃないから、間違える機会も少なかったのだけれど。
恥をかくと覚える、とは言うものの、今後できれば恥ずかしい思いをすることは極力避けて通りたいものである。