ある日、サッカー観戦するなら……
ゴール裏から赤い煙幕が上がっている。歓声と怒声。飛び散るポップコーンや紙コップ。スタジアム全体が混沌としていた。
UEFAチャンピオンズリーグ2000‐2001シーズンの2次リーグ、ACミランVSパリ・サン・ジェルマン(PSG)。私はひょんなことからこの試合会場にいた。
少しさかのぼって話をしたい。幼い頃天皇杯決勝を見に行ったときのことだ。父の勤める会社が決勝に進んだので、家族で見に行くことになった。「こんなことはきっともう二度とないから」という、会社のチームに対して不謹慎な発言をする父に連れられ(それは事実になってしまったが)、国立競技場へ足を運んだ。ルールを知らなかった私は、兄から「キーパー以外は手をつかっちゃいけないスポーツ」とだけ聞いていた。それなのに、試合中他の選手が手を使うことがある(スローインです)。時々試合が止められ、何かやっている(反則からのフリーキックです)。その都度私は「ねえ、あれ、何?」と聞いていたのだが、父も兄も「黙って」という態度でまったく相手にしてくれない。母もルールを知らないから、「何かしらねぇ」という反応。隣の席には知らない人がいて、勢いよく立ち上がったり騒いだりして何だか怖い。しかも寒い。サッカーというスポーツが理解できないまま試合が終了し、私はふてくされたまま帰宅することになった。
それでも、1つだけ良い思い出として心に残ったことがある。人々のわぁ~っという歓声が、風の波のようになることだ。その場の大気全体がウォーンという響きに包まれ、何とも言えぬ高揚を感じたことを覚えている。
その後小学生のとき、テレビで全国高校サッカー選手権を見た。アデミール・サントス選手のプレーに憧れ、いつか自分もサッカーをやりたいと思うようになった私は、数年後、体育会の女子サッカー部に入部した。「試合は生で見た方が勉強になる」と言われ、何度か観戦もするようになった。スタジアムの熱気を肌で感じられるのは、会場ならではの醍醐味だ。選手たちの緊迫したプレーを前に、ピタミン注射を打ったときみたいに血流が一気に駆け巡り、身体がカアッっと熱くなる。こんなパスが、フリーキックが、ディフェンスが、自分でもできたら!そして、すぐに帰って練習(真似)したくなるのだ。こういう体験をしていると、「やっぱり試合は生じゃないとねぇ」となりそうなものだが、私は違った。
あまり良い席を確保したことがないせいもあるのかも知れないが、よく見えないことにストレスを感じるのだ。前の席の人が旗を持っていたり立ち上がったりしてプレーが見えなかったとき、家のテレビの方が良かったなぁと思ってしまう。一試合を集中して見られなかったことにモヤモヤし、早く帰ってビデオを見たいと思っても、混雑でなかなか出られないスタジアムに閉口する。血が沸き立つような選手のプレーや、風の波の高揚は捨て難いが、頑張ってチケットを取る行為も含め、生観戦でないとイヤだという強い思いがそこまでなかった。
それなのに、UEFAチャンピオンズリーグを観戦。当時私はパリの語学学校に通っていたが、サッカーをやっていたとは誰にも話していなかったので、その話題を振られることはなかった。私自身、演劇やバレエの舞台は見てみたいと思っていたものの、サッカーは考えていなかった。ところが、私のクラスにはタクマくんという、イギリスでサッカー留学をし、その後フランスで美容師見習いをしている日本人男性がいた。彼がUEFAを見に行くと話題にしているのを聞き、カズミさんという日本人女性が「見に行ってみたい」と言い出したのだ。私はカズミさんとよく出掛けたりしていたので、彼女から誘われる形で、観戦メンバーに加わることになった。
チケットの手配はタクマくんが受け持ってくれ、「現地集合ね」ということで、私はカズミさんと二人、メトロでスタジアムへ向かった。アクセスの良さから、メトロで来場する人が多い。スタジアムまでは少し歩くのだが、人の流れについていけば迷うことはない。路上では「PSG!PSG!」と飛び跳ねながら連呼する地元っ子や、イタリア国旗を羽織って顔に緑・白・赤の三色ペイントをしたミランサポーターが横並びでかっ歩し、辺りは熱気を帯びていた。
途中、制服警官に「鞄の中を見せて」と止められた。チャックを開いただけですぐに通してもらえたが、スタジアムより手前の路上だっただけに、「こんなところでチェックするの?」と不思議に思ってしまった。とはいえこの直後、2001年の同時多発テロ以降はものものしい警戒態勢になったようだから、あのときは随分緩い警備だった。
私たちが入口で待っていると、タクマくんが彼女と男友達2人を連れてやって来た。私とカズミさんは、タクマくんを含めた彼らよりだいぶ年上だったので、お互い何となくぎこちない会話をしながら席に着いた。私の隣の席はキックオフ直前まで空いていた。このまま誰も来なければいいな、と思っていた矢先、トレンチコートにハンチングを被った男性がキョロキョロと席を探している様子に気付いた。パッと見、ゴッドファーザーのクレメンザ(リチャード・カステラーノ)。お隣さんだったらどうしよう?!なぜか不安になる私(失礼だろ……)。だが私の想像していた人柄とは裏腹に(どんな想像だ)、クレメンザはとても礼儀正しく「すみません」と一人一人に挨拶しながら前を通り、コートの裾が当たったりしないよう注意深くゆっくり動いていた。そして、私の前も同じ要領で通り過ぎたのち、隣の席へ腰を下ろした。私は心持ち、身体が硬直する(だから、失礼だってば……)。クレメンザは着席後すぐ、ポケットにあるものを取り出そうとした。
(な、何を取り出すんだろう?)
って、銃のわけないでしょう?!映画の見すぎだよ!それに、一応手荷物チェックあったからね!!
自分にツッコミを入れながらも、彼の動きに注目してしまう。どうやら携帯のようだ。このときも、彼は私にぶつからないよう、非常に慎重な動作で携帯を取り出し、口元を押さえながら誰かと通話していた。意外と紳士なのかも(本当に失礼極まりない……)、などとひとしきり勝手な妄想をしたのち、試合が始まった。
PSGのホームだから、当然PSGを応援する人が多い。私はと言えば、大変申し訳ないがミラン寄りになっていた。本当はどちらでも良かったのだが、当時のミランにはアントラーズでも活躍したレオナルド(元ブラジル代表)が所属していたため、何となく親近感を持ってしまったのだ。
(クレメンザはイタリア系かな?ミランを応援してるのかしら?)
また勝手な空想で隣席の様子を伺う。彼はPSGが良いプレーをすると満足そうだったし、悪いプレーをすれば不愉快そうに顔を歪めていたことから、どうやらPSGサポーターのようだった。
(アウェイの人間は大人しくしていよう……)
私は大きなリアクションをすることなく、静かに観戦を続けた。
試合はPSGが先制。スタジアム全体がうわっと浮き上がるような感覚で、場内の観客が総立ちになる。クレメンザも初めて立ち上がり、「よくやった!」と大声で叫んだ。彼は前の席の人とぶつかりそうになり、慌てて傾いた体勢を後ろに戻していた。
その後、後半も残りわずかとなり、このまま試合終了かと思い始めたとき、なんとミランが同点ゴールを決めた。スタジアムに響く悲鳴や怒声。一部のミランサポーターは腕を突き上げたり手を叩いたりしたが、PSGサポーターの剣幕に、控え目に振舞っていた。
「Merde!(くそっ!)」
クレメンザも憤りをあらわにしている。
「こんな時間帯になにやってんだ!馬鹿野郎!」
さっきまで紳士かも?と思っていたが、やっぱりマフィアのクレメンザ(違うって……)。
前の人にぶつかってるよ?椅子、蹴っちゃダメ~!
彼の二面性を垣間見て呆然としていたところ、カズミさんから伝達が回ってきた。
「外国人はサポーターに八つ当たりされる可能性があるから、試合終了までいないでもう出ようって」
周囲が騒然としていてカズミさんの声も聞き取りづらい。帰ろうとする人が意外と多く、ノロノロとしか進めない。ゴール裏から上がる赤い煙幕や飛び交う紙コップを見て、こりゃ早く帰らなきゃ!と少し焦り始めていた。
すぐ隣にいたはずなのに、私とカズミさんはタクマくん一行とはぐれた。
「こんな状況だから男性がいてくれた方が心強いのに、あの人たちどこに行ったの?」
カズミさんは帰路に不安を感じているようで、出口付近で暫く彼らがいないか探していた。私は心の中で、彼らは彼らだけで過ごしたいだろうからきっともういませんよ、と呟いていた。
カズミさんが諦めモードになった頃合いを見て、私は帰宅を促した。周囲で荒れている人々と目を合わさないよう、私たちは早足でメトロまで出てきたが、プラットホームでも混沌とした状況は続いていた。サポーター同士が罵り合うような声。半歩でも動いたらホームに転落しそうなくらいギリギリのところまで人がいるのに、誘導する駅係員さんがいない!そしてここでも赤い煙幕。これって運行妨害とかで訴えられたりしないのかな?
私たちは何とか安全に乗れそうな状況になるまでホーム壁際で待機し(線路近くだと本当に突き落とされそうな雰囲気だった)、何本かのメトロを見送ったのち、やっと帰路につけた。メトロ内でも、私たちの視線はおぼろげだった。ガラス越しでも誰かと目があったらいちゃもんを付けられそうなピリピリした空気が、ここでも漂っていた。私たちは会話することなく黙って向かい合い、車両から降りる際、やっと「気を付けて帰ってね!」と互いに声を発した。
PSGは同点のまま試合終了となり、2次リーグのグループ内で最下位となったようだ。ミランは3位のため、どちらも準々決勝には進めなかった。それでも、あの試合に勝っていたら順位が変動したかも知れないから、PSGサポーターが荒れるのも多少理解できる。クレメンザだって、普段陽気に踊ったり料理していても、平然と殺してたからなぁ(まだ言うか!)。
試合を見に行かなければ体験できなかったカオス。これはこれで貴重な経験、だと思うのだが。
やっぱり、サッカーはテレビで見た方がいいなぁ(しみじみ……)。